いきなり

三日更新をサボった。我ながら怠惰だなぁ(苦笑
で、前の「新しいアタマ」の話の続きだが、奇抜な才能を持つ人間というのは、対人能力が優れていなければ、人々のルサンチマンの恰好の的となる。嫉妬だ。
私はそういうのを見ていて、自分に利害がないことを云々思うのは無駄な労力だと割り切ってしまうので、むしろ彼に対して同情を抱く方かな。ナポレオンを見て馬の上の世界精神を見たヘーゲルよろしく、私も世界精神を身近で見られるなら、それだけで満足である。ま、利害の及ぶ立場だったら徹底的に潰してるかもしれないがなぁ。

近所の図書館

今日もこれから近所の図書館にでかけようかと思っている。
図書館というと静かなイメージで、やっぱり家にいるより落ち着ける。別に家がうるさいっていうわけではないけど。
以前は図書館に行っても、ちびっ子達が騒いでてうるさかった。でも、平日に行くとそれなりに静かなのを最近知った。まぁ当然と言えば当然か。市立センターみたいなのと同じ建物になってる所以か、外を見れば枯山水があって、京都の寺ほど綺麗ではないが近所でこんなものが見れるのかと少し驚いた。

ブログ論とか

そんな大それたことを私が語れるはずもなく。
何かとよく思うのは、かなりの文字数があるブログでも普通に読まれている点。きっこのブログなんてその典型か。私はあれだけの長さで私情をぶつけられるのには耐えられないなぁと思う。まぁそういう文章だけではないだろうが。
で、このブログ長文化と本の売り上げが上がってるのは同根の現象だと思う。その背景には、表現の易化による出版の大衆化がありそうな。これだけで済ますと簡潔すぎて手落ちが当然あるだろうが。
最近は新書ブームとか言いつつ、やっぱり内容の易化とかあからさまなウケ狙いとかは否めない。扶桑社新書とかラインナップを見て吹いてしまった。でも岩波中公とかも売り上げは上がってるのか。すると、大衆は馬鹿になった的なステレオタイプの結論は導き出せない。
気になるのは、文章がどんどん読みやすくなってきてるのではないかということ。文語文の時代の夏目漱石というほどではないが、後から見れば現在の現象というのは、その辺に原因があると結論づけられるのではなかろうかと。

漢詩

近頃漢詩が好きでよく読む。よく読むといっても所詮素人であるが、李白の五言絶句の豪放さに惚れ込んで好きになった。白楽天は日本で昔から人気があるが、あまり読んでいない。
今は杜甫の七言律詩か。情景が丁寧に説明されていて、その美しさを目にしているかのように感じる。今一番気に入ってるのはこれ。


返照

楚王宮北正黄昏  楚王宮の北は正に黄昏
白帝城西過雨痕  白帝城の西には過り雨の痕
返照入江翻籍壁  返照江に入りて石壁に翻り
帰雲擁樹失山村  帰雲は樹を擁して山村を失す
衰年病肺惟高枕  衰えたる年に肺を病みて惟えに枕を高くし
絶塞愁時早閉門  絶かなる塞に時を愁いて早く門を閉ざす
不可久留豺虎乱  久しく留まる可からず豺虎の乱
南方実有未招魂  南方には実にも有り未だ招かれざる魂


書き下しは岩波新書「新唐詩選」によった。この本によるとタイトルは「はんじょう」と仮名があてられているが、岩波文庫杜甫詩選」によると「へんしょう」と読まれている。返照とは雲間から差した陽光が川面に照り返す様である。私は「はんじょう」と読む方が何となくしっくりくる。
同じ杜甫の七言律詩に「登高」というものがある。「風急に天高くして猿嘯哀し」から始まる詩で、古今の七言律詩の最高峰と言われるが、寒々としているので、私の中では「返照」に及ばない。ま、詩はその時の自分の心境によりけりなので、「登高」が好きになるときもそのうち訪れるだろう。私の心境ということで言うと、最後の「実にも有り未だ招かれざる魂」が心を打った。なるほど李白は豪放だが、杜甫の切実な心情は更なる重みをもって吐き出されているようである。
入門したての私が言うのも何だが、漢詩に入門してみようと思うなら、先程の「新唐詩選」を推す。一句一句の情景を解説する形式で書かれているので、安直に日本語訳されているよりも詩の原形に触れながら理解できる。日本語訳が付いてるとそっちばかり読んでしまう人は私だけではないはずだ。或いは、詩を解説するということは一種の書評みたいなものとしても受け取れるかもしれない。
この本が古本屋の片隅に50円で置かれていたことは私にとって幸運であった。
新唐詩選 (岩波新書)杜甫詩選 (ワイド版岩波文庫)