最近の中央公論は面白くない

中央公論は3年前くらいから毎月購入しているが、定期購読ではない。というのは、内容次第で買う買わないの余地を残すためで、今までは何のかんの言いつつ今月も買うかということで買っていた。しかし、最近は本当にパッとしない。私がブログで収集する情報に雑誌メディアの情報発信が追いつかなくなってきているという要因も少しはあるかもしれないが。先月号では爆笑問題太田光が一人前に語っているのが見えたので買わないことを即決した。先月は始めて毎月の購入が途切れた月である。太田光は畑違いだからとか、真面目に話していないとか、ふざけているとか云々様々な理由はある。だが、一番の理由と思ったのは、あまりに彼が商業主義的すぎるところか。無論、真面目にやっている学者さんもメディアによって商業主義的な商品に作り替えられるのは分かっている。だが、自分から明け透けにコマーシャリズムの雰囲気を放っている彼は好きになれない。こういう見方は時流に逆行したものなのであろうか。とかく、最初に嫌だと思ったものはなかなか覆らない。いくら理性的な判断がそれを押しとどめようとしても、である。それが容易に覆るのは別の欲望が優先したときだけである。

耐えられない日常の重さ

存在の重みに気を取られているヒマなど無く。
間違いなく今年一年が人生の転機だな、私はそんなもの信じたくないが、手の平の運命線の分かれ目がまさに今年であるのだと思う。
今小説の「大聖堂」を読んでいるが、凄まじく面白い。山崎豊子に劣らぬ人間の欲望が、中世という舞台を借りて、より象徴的に描かれている。Dainさんの去年のスゴ本十傑という煽り文句は、煽り文句でさえなかった。読み応えもあり、やはりスゴい。
で、現在の自分の状況を考えると、小説に劣らぬ状況だ。巧妙に仕組まれた小説の伏線のように、複数の問題が一度にふりかかっている。事実は小説より何とやらである。それを思うと、小説を読んで楽しむのはおかしいのではないかと思い至る。
しかし変なことはないのだ。当人にすれば悲劇でしかないことをフィクションという名の下に喜劇に変えてしまうのが小説というものである。いや、フィクションでなくとも喜劇だ。どうせこの時期さえ過ぎ去ってしまえば、私にとって現在の苦境は喜劇と化すのだから。
ま、私が思うのは、本当に確信を持って人生の転機と言えるような事態が起こるとは思わなかったこと、だな。
大聖堂 (上) (ソフトバンク文庫)大聖堂 (中) (ソフトバンク文庫)大聖堂 (下) (ソフトバンク文庫)

フランク・ジャヌージ「超党派での『関与』主義が復活する」

中央公論四月号所収。著者は民主党スタッフ。中央公論にはよくAEIの研究員が論文載せてるから共和党寄りかと思うと逆方向に向かうのが、この雑誌の良いところである。
簡単に要点をメモしてみたが、ほぼ当たり前のことを書いていて、方向性もタイトル通りといったところなので長々と書くに値するような情報はない。著者がカヌーとカヤックの比喩を出しているが、上手い比喩でもないので、関係ない与太話で誌面を稼ぐなよというのが感想である。
そういえば米国ってスポイルズ・システムだったなぁとか当たり前のことを思い出しつつ、著者が中立の観点だと言いながら民主党寄りに議論を持っていくのは、なかなか巧いが卑怯だなぁと思う。しかし私はそうした議論展開のやり方をよく使う。同根じゃないかと思えばやや好感に傾くか。
クリントン→ブッシュ→次期政権までの流れは、「クリントン=正」として、「ABC(Anything But Clinton)」を掲げた「ブッシュ=反」、そして次期政権は超党派コンセンサスを取り付けるという予測の元に「合」としている。あぁヘーゲル的、というのは議論の運び方の常だから仕方ないが、それより「Anything But Clinton」と言えば、前回大統領選のケリーさんは「Anything But Bush」ではなかったか。雪斎先生がこの前に取り上げておられたところである。彼らの理想はクリントン時代の延長の先にあるニクソン(キッシンジャー)時代だろうか。


さて話を戻すと、文章中で気になったのが二点。一つは京都議定書も支持するだろうというところ。思えば確かに京都議定書を破棄したのはブッシュ大統領だったし、GMなどのエコ自動車技術もそろそろ復調の兆しが見えそうな辺りを考えると、それなりに現実的な話だと思う。
もう一つは、ブッシュ政権は対北朝鮮政策において太陽政策を見放したから失敗したんだという意見。日本の立場からすると太陽政策なんて一瞥に値しないと思っていたので、他国の立場から考えてみることは必要だなと思った。まぁ米国はイラクで忙しいので現在の日本の強硬路線に合わせてられないというのは、もはや当たり前の話だが。