日経のお試し購読

我が家で新聞が読みたい――。


それはかなり昔からの願望だったのである。
我が家における新聞の必要性というものは、父が会社で新聞が読め、母は新聞そのものを必要とせず、むしろ新聞に付随する広告の重要性をより大きく評価するという本末転倒の始末で、つまり、我が家は昔から新聞を購読していない家庭だった。
物心、つまり社会情勢に対する関心が高まりだした中学生くらいの頃から、我が家で新聞が読めないという不条理に気づき、我が家が如何に世間様と比較して知的生活の水準における後進性を誇っているかを両親に説いた。
両親は息子の論難への対策として、すぐ近くに祖父母が住んでおり、そこから新聞を拝借してくればいいではないかと宥めた。
そして、幾度かは祖父母宅から50メートルほど離れた我が家へと新聞の輸送が試みられた。
しかし、それは、「新聞」という名にも拘わらず、得られる情報は昨日の情報であって、当時、毎朝通学電車の中で日経新聞を読むエリートサラリーマンをまぶしく眺めていた少年にとってはあまりにも理不尽と思える仕打ちであった。
とにかくにも、このようにして、我が家が新聞というものを購読する機会は先延ばしを余儀なくされ続けたのである。


さて、最近日経のお試し購読が我が家へ来た。
そして、母は以前からの有声無声の圧力に考慮して、新聞屋からの勧誘攻撃への懸念を有しつつも、お試し購読に踏み切ったのである。


そして、ここ数日朝刊夕刊とひっきりなしに届く。
届くようになってから初めて感じるが、とにかくひっきりなしなのである。
つまりは、毎日の生活リズムが今まで新聞なしに成り立っていた。そこに、新聞を読み、理解する時間が必要となってきたのである。
客観的に見ればだらしがない生活にしろ、当人にとっては四六時中必要な行動(例えば呼吸とか)に必要な時間を充てているのだから、すぐに時間編成を切り替えることは、朝の通勤ラッシュ帯の電車のダイヤを書き換えるに等しいくらいの困難を伴うのである。


また、今までは新聞という紙媒体での情報摂取の欠如を、PCのyahooニュースや、朝と夕方のTVニュースで補うという習慣を無意識下に続けてきていたので、いざ新聞に向かい合って、読もうとすると、細かい情報が気になってしまう。
たとえば、数日前の情勢はどうであったかなど、「その日の情報」で足りない部分に興味が向いてしまう。
そして結局、そうした数日前の情報はネットで見ればいいじゃないか、ということになる。皮肉なことに、そこで効果を発揮するのは新聞社のサイトなのである。


これまでの生活の中で、無意識に続けてきていた情報の摂取のやり方、つまり、気になる情報をつまんできて、ネットで詳しく見る(時にはwikipediaで雑学も摂取する)ようなやり方に馴染んでしまった身としては、新聞は妙に窮屈に思う。
紙面がある以上目を通さなくてはならないし、目を通さなければ損をした気分にもなる。
情報自体は有料で取らなくても無料でウェブ上を浮遊しているものであるという意識がついてしまっているから、情報は好き勝手に摂取していいものだと思ってしまっている。
そこに新聞という重々しいものを持ち込むことというのは、さながら、好き勝手に食堂で毎日の食べたい種類と量を決めていた生活から、栄養士が食べる種類と量を決定し、それを食べることを強制される病院食の生活に変化したような感がある。
それだけ、新聞が今の世の中に対して窮屈になってしまっている、逆に言えば、時代遅れになってしまっている証左なのかも知れない。


だから、一つ思うのには、新聞というものに、もっと読みやすさを求めるべきではないかという点。
これは、先ほどとはまた違った内容になるかも知れないが、新聞という代物が、物理的にも重々しく感じることによる。
情報自体の摂取に対して消極的ではないはずの私が、これほど新聞という代物を面倒に思ってしまうのは、新聞を全開して机に置いたときの圧倒的なサイズ感によるところが大きいであろう。
パソコンに向かうことや読書などを、椅子座の状態で行うことを好む私からすれば、新聞を広げて見る場とは、リビングのカーペットの上ではなく、机の上となる。
そうなると、特に自室の机の上なんかでは、新聞のフルオープンにはとても耐えられない。
これは、以前に中央公論ニューズウィークを購読していた時と比較すればよく分かる。
雑誌のサイズでは広げることには何の窮屈も感じなかったのである。


ここまで、結果として、あらゆる方向性から新聞というメディアの後進性について論評する内容になってしまった感がある。
しかしながら、私の意図は違う。


これだけの情報が毎日記者や編集者の手で作られ、各家庭に配送されてくるということは非常に貴重なもので、現代の特徴の一つがマスメディアの発達であるという一面を象徴している。
その新聞の重要性が、現在の、あるいはこれから主流となるライフスタイルからして、これほどまでに薄っぺらく扱われている現状が、私自身が感じた実体験の感触にも裏付けられて何とも歯がゆいような感想なのである。
人間が文字に触れることがこれだけ過去にも増して慢性化した世の中で、新聞はどのように生き残っていくべきなのか、私の実感触としても納得がいくような結論を見たいものである。