議論をするということ

ある友人より、以前のブログ論の続きのようなものが回ってきたので書く。承前としては以下二つを参照。
思考実験5/3付−疲労困憊
思考実験5/4付−備忘録とか
以前私は自らのブログを書く契機について語ったのだが、彼はそれを受けて自らの書く契機を話してくれた。彼によれば、書くことに求めるのは、自らの論理的思考と表現技術を磨くことであり、自らの書いた足跡が、対他的に開かれた「ログ」としての価値を持つことではないそうだ。この主張は、「知を結実する場」という私の契機とは重なってくるが、彼がログ的な価値を求めていない点は相違する。
そして彼の話は、ブログの大きな特徴であるレスポンスについての部分へと移る。そこで彼は、自らの書く行為が未熟であることを理由に、レスポンスを受けるわけにはいかないと言うのだが、私はこの部分で違和感を感じる。レスポンスとは、著者と読者が意思を交わす機会であり、そうして広義に捉えると、議論するということにも繋がってくるものである。すると、このレスポンス(⇒議論)というものは、果たしてどのような言論を対象にしているのか。その対象とは、私によれば、不完全な言論でこそ機能するものであると考える。それは対極を考えれば明らかであるのだが、完全な言論同士で議論をした場合、往々にして価値観の対立という埋められない溝に帰結してしまう。無論、彼が未熟だと言うのは、この場合に示されている論理性の問題のみならず、自分の意見が充分に表明されているかという表現技術の問題にもあるのだが。表現技術の面においても、議論をすることで細部がフォローされ、クリアになるという効果は期待できる。むしろ、表現技術の熟達というのは、書くという一次行為に留まらずに、その後の展開・フィードバックの中で養われていくものではないかと。
私は以上の点から、レスポンス(議論)について控えめな態度を取る彼の立場は、逃げているだけに過ぎないのではないかと、敢えて強く弾劾いたします。ま、正直なところ私から見て、論理的思考と表現技術の両面で彼は何ら劣っていることはないし、ただの謙遜だと思うのですが。彼の問題に対する取り組みに、私は関わっていきたいし、私の関心は野次馬程度のものなので、謙遜してもらうほど大したものではないです。先方には、そういう点を汲み取ってもらえればと思います。

久々の休み

やっと久々に休日が来た。こんなことを言うと、つい一週間前にGWがあったばかりじゃないかと言われそうだが、ここ一ヶ月間はほぼ全ての休日に予定が入っていた。ま、予定を了承したのは私だし、その多くは遊ぶ予定でもあったのだが、久々にフリーな休日を得てみると、なかなかに悠々自適で良いものがある。4月の休日は当然のように別の所用で動き回らさせられたし、5月に入ってからもGWなんかは平日より疲れるとしか言いようのない休日ばかりだった。GWで一日歩き回った日があったが、後で見てみると20km以上は優に歩いていましたね。そんなわけで、今日と明日で疲労が少しでも軽減する方向に動けば、と思う。だが、疲労を休めすぎてもトーンダウンしてしまって→五月病とかになってしまうとまずいし、糸を張ったまま緊張を緩めるというような、テクニカルな休養法でないといけないかなぁと。