欧州の反原発ムードから考える電力安全保障

今回の原発事故については、かねてから原発の安全性には疑義を持っていたので、案の定という感じだった。格納容器までやられていた、というのはさすがに想像もしなかったが、ECCS(緊急冷却装置)の配管破断や不作動の可能性については、過去のディベートの大会でも大きくクローズアップされたポイントである。
気分としては、原発なんて廃止してしまえ、という反原発の機運に大いに賛成である。
理由としてはいくつかある。

  1. 電力会社が国策であることを盾に、これまでに強引な手法であらゆる反対派を押さえ込んできたこと、またその体質。(原発作業員の健康問題の隠蔽など)
  2. 直接ではないが、今回の事故を受けて各地の原発が点検を終了できていないことによる電力不安定化。

以上の二点が主な理由だ。緊急時に安定供給ができない電源ならば、必要ないということだ。

しかしながら、裏を返せば、これらは原発自体への廃止論とは性格が異なる。
というのも、運営する電力会社や政府が充分な信頼を得られるように、また、安全策を徹底すれば、どうにかなる類のものであるからだ。
原発派=左翼にならないような団体の監視に基づく正常な体制のもとで、安全対策に細心の注意を払って運営されれば、大きな異存としてはない。

一方で、欧州では反原発の機運が高まり、イタリアでも原発にNOが決まりそうだ。
だが、これは、実のところ無責任な態度である。
欧州は電力を輸出入することができ、フランスなどが原子力発電しているところから買うのが関の山だ。結局、自国だけきれいなフリをしていたいということだ。

それに対して日本は…と思わざるを得ない。
電力をどこかから買うことが不可能である以上、自前でどうにか電力を確保していくしかない。
原発がこの国において推進されてきたのも、電力のソースを多様化して、電力安全保障を確保しようとした意図が裏にあったことを思えば、この国は欧州にはない苦労を積み重ねてきたことが思いやられる。
早速、輸出入の統計データなどから、火力発電で需要が増加した石油が輸入総額を跳ね上げていることを思えば、電力安全保障とは今こそかえって考えるべきものではないのか。

通貨については、日本は欧州と違って独自通貨を保有している強みがあるが、一方で電力安全保障上は欧州よりも孤独な弱さがある。
地域共同体の良さと悪さとが、好対照で見えるポイントかもしれない。

「文明の衝突」の若者への分析の誤謬と正鵠

中東で民主化の波が起きている。
この連日の報道は実のところ、私には実感が湧かない。
6年ほど前、中央アジアにおいてカラー革命だったか、革命の連鎖というものがあって、そのときは中央公論を購読していたのもあって、大国のグレートゲームとしての地政学的興味をそそった。
過去と現在とでは、国際情勢に対する興味の差というものがあるかもしれないが、それにしても実感がない。


今日、ちょうど「朝まで生テレビ」の放送日で、今もまだ現在進行形で放送中のはずだが、番組の冒頭でこんな分析があって首をかしげた。


「中東における民主化デモの連鎖反応の原因として、デモの参加者の年齢が60%以上が若年層で固められている点が大きく影響している」


中東における若年齢層の割合の多さというものには、おそらく多くの学者が注目しているのだろう。
過去に読んだサミュエル・ハンチントンの「文明の衝突」では、中東におけるナショナリズムの高まりの要因として、若年齢層の増加を挙げていた。
若年齢層が多いから、ナショナリズムのような熱狂的な運動に情熱が向かいやすく、その結果、中東と異なる文明との摩擦が増大する―、というのが「文明の衝突」論の根拠の大部を占めるものと記憶している。
当時の私にとっては、「文明の衝突」論はその予見性がイラク戦争などによって立証された有名な理論であるにも拘わらず、その論拠が若者の多さという曖昧な点だけによっていることに少なからず衝撃を受けたものだ(今でも若者が多いから云々という理由付けは社会心理学者の杜撰なこじつけと変わらないようにも思う)。


だが、もし仮に文明の衝突論が根拠も含めてその通りであったとすれば、今回の中東情勢の変化は、文明の衝突論の誤謬を指摘するものとなるのではないだろうか。
すなわち、文明の衝突論においては若年層の熱狂はナショナリズム国家主義)となって、他国に向けられるとあった。それが、今回の事例では全く逆に、熱狂が自国の政府に向けられたのであるから、この点で熱狂の向かう方向を正しく予見できなかったということになろう。
この点で文明の衝突論は誤謬を犯している。


しかし一方で、中東情勢の先行きを併せて考えれば、全く逆の事実が見えてくる。
つまり、各国における民主化を要求する波が現政府を打倒した後にどうなるかを考えてみればいい。
今までの政府当事者が国際社会の関係の上で「現状維持勢力」であった以上、これが変わることによって、国際関係の不安定化を促進することになりかねないのである。
詳しくはエジプト情勢のなりゆきを考えてみればいい。ムバラク大統領は中東におけるアメリカとイスラエルの良き理解者であって調停者であった。
それが今回の政変によってもしかするとムスリム同胞団の台頭を許してしまいかねない。
米国は関与に細心の注意を払い、軍部の臨時全権掌握時の国際関係の変更なしとの宣言に胸をなで下ろしていることだと思うが、今後予定される次の大統領を選ぶ選挙と、それに合わせるように政党化の準備を進めているムスリム同胞団の動きを見るに、米国はおそらく気が気でない。


少なくとも、エジプトにおけるこのような顛末を見ると、文明の衝突論が結果として正鵠を得ていることが分かる。
やはり若年層の増加による正常の不安定化はともすれば、嫌欧米勢力の新たな勃興を許しかねない。
今回問題となっているリビアにしても、カダフィ大佐は欧米と一定の距離を保ちつつも、一方的な敵対勢力に回らないような態度を取ってきているわけであるから、次の政権がどうなるかの見通しの中では、否定的な予測が多くを占めることになるかも知れない。


ともあれ、私としては、実のところ、別な関心が大きい。
つまりは、東欧〜中央アジア連鎖革命の時と同様に、各大国の地下組織、NGOがどう動いているか。
今回のエジプト政変では、グーグル幹部が大きく注目されたが、彼は果たして米国らの意向を汲んでいる勢力なのだろうか。
さしずめ野次馬の興味に過ぎないかもしれないが、この政変の連鎖が一段落したときに、どのような陰謀の痕跡が明らかとなるか、そのあたりに国際政治の暗闘の醍醐味を見いだしたいのである。

日経のお試し購読

我が家で新聞が読みたい――。


それはかなり昔からの願望だったのである。
我が家における新聞の必要性というものは、父が会社で新聞が読め、母は新聞そのものを必要とせず、むしろ新聞に付随する広告の重要性をより大きく評価するという本末転倒の始末で、つまり、我が家は昔から新聞を購読していない家庭だった。
物心、つまり社会情勢に対する関心が高まりだした中学生くらいの頃から、我が家で新聞が読めないという不条理に気づき、我が家が如何に世間様と比較して知的生活の水準における後進性を誇っているかを両親に説いた。
両親は息子の論難への対策として、すぐ近くに祖父母が住んでおり、そこから新聞を拝借してくればいいではないかと宥めた。
そして、幾度かは祖父母宅から50メートルほど離れた我が家へと新聞の輸送が試みられた。
しかし、それは、「新聞」という名にも拘わらず、得られる情報は昨日の情報であって、当時、毎朝通学電車の中で日経新聞を読むエリートサラリーマンをまぶしく眺めていた少年にとってはあまりにも理不尽と思える仕打ちであった。
とにかくにも、このようにして、我が家が新聞というものを購読する機会は先延ばしを余儀なくされ続けたのである。


さて、最近日経のお試し購読が我が家へ来た。
そして、母は以前からの有声無声の圧力に考慮して、新聞屋からの勧誘攻撃への懸念を有しつつも、お試し購読に踏み切ったのである。


そして、ここ数日朝刊夕刊とひっきりなしに届く。
届くようになってから初めて感じるが、とにかくひっきりなしなのである。
つまりは、毎日の生活リズムが今まで新聞なしに成り立っていた。そこに、新聞を読み、理解する時間が必要となってきたのである。
客観的に見ればだらしがない生活にしろ、当人にとっては四六時中必要な行動(例えば呼吸とか)に必要な時間を充てているのだから、すぐに時間編成を切り替えることは、朝の通勤ラッシュ帯の電車のダイヤを書き換えるに等しいくらいの困難を伴うのである。


また、今までは新聞という紙媒体での情報摂取の欠如を、PCのyahooニュースや、朝と夕方のTVニュースで補うという習慣を無意識下に続けてきていたので、いざ新聞に向かい合って、読もうとすると、細かい情報が気になってしまう。
たとえば、数日前の情勢はどうであったかなど、「その日の情報」で足りない部分に興味が向いてしまう。
そして結局、そうした数日前の情報はネットで見ればいいじゃないか、ということになる。皮肉なことに、そこで効果を発揮するのは新聞社のサイトなのである。


これまでの生活の中で、無意識に続けてきていた情報の摂取のやり方、つまり、気になる情報をつまんできて、ネットで詳しく見る(時にはwikipediaで雑学も摂取する)ようなやり方に馴染んでしまった身としては、新聞は妙に窮屈に思う。
紙面がある以上目を通さなくてはならないし、目を通さなければ損をした気分にもなる。
情報自体は有料で取らなくても無料でウェブ上を浮遊しているものであるという意識がついてしまっているから、情報は好き勝手に摂取していいものだと思ってしまっている。
そこに新聞という重々しいものを持ち込むことというのは、さながら、好き勝手に食堂で毎日の食べたい種類と量を決めていた生活から、栄養士が食べる種類と量を決定し、それを食べることを強制される病院食の生活に変化したような感がある。
それだけ、新聞が今の世の中に対して窮屈になってしまっている、逆に言えば、時代遅れになってしまっている証左なのかも知れない。


だから、一つ思うのには、新聞というものに、もっと読みやすさを求めるべきではないかという点。
これは、先ほどとはまた違った内容になるかも知れないが、新聞という代物が、物理的にも重々しく感じることによる。
情報自体の摂取に対して消極的ではないはずの私が、これほど新聞という代物を面倒に思ってしまうのは、新聞を全開して机に置いたときの圧倒的なサイズ感によるところが大きいであろう。
パソコンに向かうことや読書などを、椅子座の状態で行うことを好む私からすれば、新聞を広げて見る場とは、リビングのカーペットの上ではなく、机の上となる。
そうなると、特に自室の机の上なんかでは、新聞のフルオープンにはとても耐えられない。
これは、以前に中央公論ニューズウィークを購読していた時と比較すればよく分かる。
雑誌のサイズでは広げることには何の窮屈も感じなかったのである。


ここまで、結果として、あらゆる方向性から新聞というメディアの後進性について論評する内容になってしまった感がある。
しかしながら、私の意図は違う。


これだけの情報が毎日記者や編集者の手で作られ、各家庭に配送されてくるということは非常に貴重なもので、現代の特徴の一つがマスメディアの発達であるという一面を象徴している。
その新聞の重要性が、現在の、あるいはこれから主流となるライフスタイルからして、これほどまでに薄っぺらく扱われている現状が、私自身が感じた実体験の感触にも裏付けられて何とも歯がゆいような感想なのである。
人間が文字に触れることがこれだけ過去にも増して慢性化した世の中で、新聞はどのように生き残っていくべきなのか、私の実感触としても納得がいくような結論を見たいものである。

アイコンチキン「ジャーマンソーセージ」

ということで早速。

帰りにマクドに寄って買ったが、デジカメを持ち歩いてなかったのでやむなくお持ち帰りにすることにし、家にて実食。
アイコンチキンシリーズ唯一のモモ肉使用ということで期待はしていたが、結果としては良い意味で裏切られた。

見た目の印象として強いのは、はみ出すサイズのチキンとその上のチーズだが、食べた印象としては意外にサッパリしており、むしろ背景となる。
最もジューシーなのはその下のソーセージで、食後の余韻も大きい。
そして、食べたときに一番印象強く残るのは、下敷きのザワークラウトであり、その強めの酸味が、ともすれば脂っこくなりがちな全体の印象を引き締めている。

巷間では全体の塩味が強すぎてソーセージの印象が薄いという感想もあるようだが、私の感想は逆である。
前回のチーズフォンデュとの比較で言うと、チーズフォンデュはサッパリした味のムネ肉を使いながらも、周りのソースなどが意外とサッパリまとまっており、印象の薄くなりがちなムネ肉を全面に押し出そうとする意図が感じられた。
それに対して、今回のジャーマンソーセージはモモ肉を使用していることからしてチキンの印象が強いだろうと思ったが、それよりも周りの具材の味付けを印象強いものにすることによって、全体としての調和を出そうとする意図が感じられる。
強い味付けの上に強い味付けを重ねた結果が塩辛いと感じることになるのかもしれないが、味のバランスということで言うと、なかなかに計算されたものであると思うものだ。
前回と同じ結論になってしまうが、やはりマクドのチキン販売戦略はなかなかに本腰を入れたものになっていると言えよう。



余談だが、先のリンク先の記事において、商品情報を調べれば分かる程度の使用されているチキンの部位の違いについて一切書かれていないのは、どうも取材・情報収集不足の感が否めない。ここのような個人ブログならともかく、サブメディア的ブログにおいて、このように手落ち感が出てしまっているのは残念である。

マクドで「アイコンチキン・チーズフォンデュ」

別の日の夕方にぶらっと立ち寄って、「そういえば食べてなかったな」と注文。

今回の期間限定アイコンチキンのシリーズは第二弾の「ジャーマンソーセージ」だけがモモ肉使用でそれ以外はムネ肉ということだったので、あまり期待はしていなかったが、これがなかなか、悪くない。
チーズフォンデュのソースなので、結構重そうに見えるが、意外にもそれほどしつこくはない。むしろこのソースによって柔らかいチキンの印象が引き立てられていて、今のマクドがチキンを全面に押し出して勝負をかけているのは、本当なのだなと。



昔のジャンキーな味付けに比して、確実に上質さが出ている近頃のマクドだが、それでも300円以上出してバーガーを食べるとすれば、モスバーガーに入るだろう。
高級路線に傾くのはいいが、それだけに路線を絞った場合に、却ってアイデンティティがなくなってしまうように思うのは、マクドの現在に至るまでの弱点かもしれない。


家の最寄りの駅前にマクドとモスの両方があるが、客層を見るとかなりの差がある。
マクドが若者寄りで、休日や平日夕方に行くと、高校生のヤンキーくさいニーチャンらがうようよいる(郊外・幹線道路沿いの店に行くと幾分マシだが)。
それに対してモスのほうが、社会人やOLが中心の客層で、昼下がりにカフェ代わりにお茶でも、という感覚で入れるのが強みかもしれない。ただ、モスで一食食べるとなると、その辺の定食屋などの飲食店と価格帯が変わらないので、どうも気が引けてしまう。


現在はマクドの業績が再び全盛期を迎えていると言われるが、以前の低価格路線の失敗から様々に試行錯誤を重ねて現在に至っている過程を見ると、今後も同様の試行錯誤は要求されてくるように思える。
創業当初から高価格・高品質路線を守り続けているモスバーガーのほうは、そうしたブランドイメージと客層で固まっており、長期的な経営の安定性ということで言えば高いように思う。
マクドの経営の舵取りの難しさがあるとすれば、それは案外、品質や価格よりも、その客層にあるかもしれない。

香川名物、骨付き鶏

大学近所に手打ちうどんをやっている店があるのだが、帰り際(夕方)に前に立ち寄ってみると、

「香川名物 骨付き鶏」
の文字が。
以前から難波にある「一鶴」などは一度行ってみたいと思っていたので、ちょうどいい機会だと思い食べてみることに。(晩飯前だが^^;)
夕方5:30くらいで開店間もない様子だったので、「これできますか?」と確認し注文。
「今から作るので時間かかりますよ」とのこと。少なくとも10分以上はかかるということだったので、ゆるりと本を読みながら待つ。
そして出てきたのが・・・

これは圧巻。
「若鶏」と「おや鶏」(関西では「ひね鶏」という)のどちらかが選べるのだが、ここは迷わず噛みしめる味わいが楽しめる「おや鶏」をチョイス。それと生ビールとのセットにしてもらった。

見よ、この、肉汁!
先述のように親鳥はなかなか固いので(特に皮のほうが固い)、骨付きカルビを切るときのようなハサミで細かく切って、骨周りの肉は豪快にかぶりつく。
味付けもなかなかのスパイシーさで、ビールがよく進む(笑)店主によると、「一鶴」などに比べると少し辛めの味付けにしてあるとのこと。
食べ終わって一息つきながら話していると、最近骨付き鶏を始めたばかりで、食べに来るのは香川出身の学生さんばかりとのこと。大阪出身だと私が最初ということになるのか。


食べ終わってから、家に帰り(素知らぬ顔で)晩御飯を食べていたが、この骨付き鶏の味付けがかなりニンニクたっぷりで臭ったらしく、何か食べてきたのを悟られたばかりか、次の日まで家族から「臭い」と言われっぱなしであった(笑)
今度行くときは家族と一緒か、何人かで連れ立って共犯にするしかないですね(笑)

論考のタネ

どうも、最近、様々なコミュニケーションがmixiに代表されるように実社会の投影が進み、同時にtwitterに代表されるように情報送信単位の断片化も進んでいるのだな、と思う。
それぞれに関して考えを煮詰めていく余地がある。

また、そもそも遠隔コミュニケーションが発達し、便利になったと言われる。つまりは、距離や金額などのコストが軽くなっていっているということを示すものである。だが、一方でコストの軽いコミュニケーションだから要求しやすいという逆説もあって、これが却って個人が行うコミュニケーションの対価(主に時間)において多大なコストを支払わされることにつながっているのではないか。
時代がそういうコミュニケーションを当たり前とし、そうでない状況がなくなってきているから比較すべくもないかもしれないが、そうした比較も興味深いだろうと思う。