政治への関与

で。
問題はこの革命権なのだが、この行使の主体は何か?という問題だ。
この関連は
極東ブログ: [書評]ウェブ人間論梅田望夫平野啓一郎
でちょっと触れたのだが、コメントやトラックバックなどを見るかぎり、理解されなかったようだ、というか、こうした問題意識が日本人にはないのだろうかという印象を持った。

毎日社説 米大学乱射 銃規制に本気で取り組め - finalventの日記

で、指していると思われる箇所はこれ。

平野が性的な身体という発想から、ウェブ世界の欺瞞性を照射しようとする場は、彼自身も自覚的なのだが、きわめて政治的な場である。単的に言おう、ブログなどでいくら政治を語ってもそれが匿名であり身体をもたないのであれば、それは欺瞞なのではないか? こうした感覚は西欧人にとっては自明な前提になっている。彼らにとって国家とは作為の契機によるものであり、国会が決したことでも実際の身体的な関与による革命的な活動によって転換しうるものだ。それは自明なことだ。ウェブが人間を変容させるというとき、その自明性は、再獲得になりうるし、退化ともなりうるかもしれない、そう平野は見ているようだ。
 私の上の世代に当たる全共闘世代にとって、政治的であることに身体的な関与を外すことはありえなかった。さらに突き詰めれば、市民の銃口なくして最終的な政治の変革はありえないことだった。が、歴史の何かがそれを変えた。私や梅田の世代はその蹉跌感が原点にあり、つねに重苦しい空気の中に存在した。

[書評]ウェブ人間論(梅田望夫、平野啓一郎): 極東ブログ

特にこのあたりか。
>彼らにとって国家とは作為の契機によるものであり、国会が決したことでも実際の身体的な関与による革命的な活動によって転換しうるものだ。
で、今の日本人にはそうした問題意識がないのかとfinalvent氏は問うている。
私は、政治に対する身体的な関与に興味はない。身体的な関与を客観的な問題として受け止めることはできるが、その問題意識を自らが主体として考えることができないというか。もしや論旨を読み違えているかな。
身も蓋もなく言ってしまえば、政治活動に関与する人なんていうのは、ともすれば胡散臭い市民グループみたいなものなんだよ、と。この辺の感覚は直近のこのエントリで書いた。現代的には、国家という抽象的な存在と、それに挑む政治活動に対する熱意や関心はほぼ失われているのだと思う。そして、本当に必要な差し迫った問題においては滋賀県のように”静かな民意”が後押しするものであると。あのエントリでは、滋賀県の事例から民意の行方を書いてみたのだが、私があの中で書こうとしたのは、もしかすると政治活動に対する関与を呼び覚ましたいという欲求だったのかもしれない。その辺は私の凡庸な文才では書ききれていなくて、ちと残念であるが、この文章が少しばかりでも捕捉になればと思う。