嫌な私の○○

うーん、私の場合お節介。無知な人間を見るとどうしても色々と教えてあげたくなってしまう。それだけだと親切な人間だということなのだが、私の場合はその先に期待するものが何かある。勝手に自分から節介焼いてるのに、折角俺が教えてやったんだからその通りにやれよ、とかそういう感じの。それは要するに、無知な人間に取り入って自分があたかもenlightenしたかのようにふるまいたいという、一種自分が崇拝されたいようなナルシズムが潜んでいるのかもしれない。だが。例としてはアダムとイヴを作っておいて、自分に背くとお前ら苦しめと命じる神のような感じかもしれない。ま、どちらにせよエゴイズムであるのだが。
で、過去にそれで大失敗したことがある。大失敗と言っても、私に何か物質的な損失が生じたとかそういうのではないのだが、長年世話をかけたその意図に反して彼はロクな人間にならなかった。私がそれに気付いたとき、長年世話をかけてやったという好意の裏返しで巨大な憎悪が巻き起こった。以来、私は彼を憎んだままである。この憎悪には、好意の裏返しの憎悪ということもあるのだが、最初から世話焼くのを止めていればいいのに、という自分に対するどうしようもない嫌な感覚も含まれている。これは全く私の中での勝手な思いこみの産物のようなもので、それを他者にぶつけるのはおかしいと言われるかもしれない。だが、私が悪いのだと承知していても、どうすることもできない心の闇というか、そういうものがある。
実は今日も同じタイプの人間にいろいろとぶちまけてしまった。お前も自立しろよ、みたいな。だが、私は経験からして彼が私の望むような自立を果たしてくれないことを確信しているし、だから言わなければいいのに、と思ったとき、どっと疲れが吹き出してしまった。私が世話を焼くそういうタイプの人間が、自立したいと思いながら自立を実行に移せないように、私の節介性も、やらなければいいのにと思いながらやってしまうディレンマを含んでいる。一般的には他人は他人だから割り切ってしまえよ、ということなのだろうが、そこが割り切れないのがまだ私の未熟さというか。どうにもやりきれない。で、私が他人に世話を焼くとき相手にどんな人間になることを望んでいるか、これが実は自分で考えてみて分からないのである。もしかしたらそこに私の望む普遍的な人間の理想像が隠されているかもしれないのだが、それを考える以前に自分が嫌になる、そんな気分である。あぁやりきれない。