ニーチェとナチズム

何でも良いから書こうとするとやはり文章がまとまっていなくて支離滅裂になる。これはどうしたものかなと思うのだけど、支離滅裂だろうとマスの中に隠れながらきっちりと発言している実感を得られるのがネットの、ひいてはブログの良さでしょ。
ということで。今は竹田青嗣ニーチェ入門」を読んでいる。何となく以前からニーチェが気になるというのがあって、でもニーチェの著作そのものには手を出しづらい(読了まで時間がかかるとだらけてくる)ため、定番のちくま入門シリーズから入ってみることにした。私の友人で、解説本の類には一切頼らず、原著だけを読んでその言わんとすることを忠実に受け止めるべきだと言う者がいる。たしかにそれももっともだな、と思うのだが、そもそも日本語で書かれている時点で海外言語を翻訳するという作為が加わっている。なので、原著と言っても日本語のものならば、気持ちは分かるが、それほどこだわるものでもないと思っている。確かに解説本などは、原著の内容を「解釈する」という作為を通して、原形から遠ざかっているのは事実なので、そこに書いてある内容に関しては本当に原著の作者の意図通りなのか、という吟味の作業は必要だと思われる。そういう点について誠実さと慎重さ、つまりリテラシーのある人ならば、解説本から原著など、それに関連するあらゆる本を読むことで、知識を総合できて、得るものが多いと私は思っている。
で、なかなか本題に入らないが。「ニーチェ入門」ではツァラトゥストラまでのニーチェの思想を一通り説明した後、だがニーチェの思想は読み方によっては危険思想のようなものも帯びている、という注意が入る。そこでナチズムとの関係があるという説を、著者は誤解釈であると排除していくのだが、ナチズムとニーチェの関連性を否定する点については、私から見て次の観点が抜けていると思った。それというのは、ナチズム自体がルサンチマンの総体であったことだ。ナチズムの成立した時代背景は、WWⅠ後のヴェルサイユ体制下におけるドイツであり、そこには勝利した協商側が科してくる賠償金などの仕打ちへの恨みがあった。そこには無論、国家や民族が自決しようというaffirmativeな意味合いも確かにあっただろう。しかし、ヴァイマル体制下における権力闘争が極右対極左であり、その結語としてナチズムの台頭に至ったという極端な思潮は、少なからず民衆の怨恨(ルサンチマン)が後押ししたと見て問題ないだろう。ナチズム体制が強力に推し進めたことの中に反ユダヤ主義があるが、これもユダヤ=金持ちに対するルサンチマンが基盤となっていると見て取れる(ヒトラー自身がまさにそうであった)。そういう点からすれば、ルサンチマンを元に成り立ったナチズムが、どうしてニーチェの権力への意志の思想を十分に汲み取れていただろうか、ということになる。ま、著者はニーチェは実際に反ユダヤ主義を嫌っていたなどの理由で同じく関連性を棄却しているのだが、私なりに見たところで思いついた意見を付加させてもらった。
ちなみに、ナチズムがルサンチマンであるという観点からすると村瀬興雄「ナチズム」でのナチズムの評価は、副題のような「大ドイツ主義の一系譜」に留まるものではないとも指摘できるだろう。無論、そのような強力なルサンチマンを引き起こしたのは強者の地位を驕った協商側なのであるのだが、著者の村瀬氏がナチズムの責任の一端を国民にもあると従来の評価を顛倒させる論理は、結語としては少し弱い響きに終わっている。同書は基本的なナチズム理解以外にも言外に込めた示唆が多い書籍なので、また改めて書評を書くことがあると思う。

ニーチェ入門 (ちくま新書)

ニーチェ入門 (ちくま新書)

ナチズム―ドイツ保守主義の一系譜 (中公新書 (154))

ナチズム―ドイツ保守主義の一系譜 (中公新書 (154))