アンチ・剣かコーランか

宗教は、逆境に悩める者のため息であり(中略)、それは民衆の阿片である。

カール・マルクス - Wikipedia

ある人から強烈な宗教的な勧誘を受けた。「宗教的な」と表現するのは、特定の宗教教派に拠らないからなのであるが、しかし信仰しろと私に言う。そもそもが宗教というより自己啓発を信仰している人なので、私は信じない。私は果敢にも過去に何回か批判しているが、「剣かバイブルか」の二元論に陥っている人種を論理の地平に誘い出すことは不可能である。で、私は適当に相づちを打ちながら聞いているのだが、今回は向こうの気迫がいつもより強く、結構長々と言われることになった。ま、自己啓発から入門しておられる方なので、私としては、信仰をもプラグマティック(実用的)に活かすつもりなのだろうと解釈する。上に挙げたマルクスの言を待つまでもなく、不条理の受け皿として神を作り出すのは、超人でもない限り、ある種仕方のないことである。しかし彼は違うと言う。霊魂は存在するのだと。うげっと思ったが、気を取り直して問答を再開する。具体的に系統は何なの?、と私。答えは煎餅とかそういう党派性のものではないので安心するが、ここで私は反論しておかなくてはならない。ほとんどの仏教教派は霊魂の存在を公式見解として明確に否定していることを私は引用する。これで決定的な打撃に違いないと思ったのも束の間、それは関係ないと一言の元に葬り去られる。・・・・・・。それで見事に意気消沈した私はその後、”不条理な勧誘”にシーシュポスのごとく耐えた。次はバタイユでも持って行ってやろうか。
で、日が暮れてからふと気付いたのだが、こういう方式には何か裏がある。上にも書いたが、弱さを神に仮託することで人間の力が増すことは、私は真だと思う。言い換えると、それは暗示とも言える。宮崎哲弥などの社会を批評する人々が、カルトを激烈に批判しつつも、原始仏教モデルなど何らかの形で宗教を立てようとするのは、宗教が最もプラグマティックな方法論となりうるからではないかと思う。ヴェーバーの説にも明らかだが、西洋近代でこの役割を果たしたのが、まさしくプロテスタントだったのだろう。で、プラグマティックな効果によって彼らは成功を手にするが、彼らの実際に持つ力に連なろうとする人々が現れ、その裾野に展開していく。そして最後には大きな山となる。こういう方式こそ、メーソンリーなどの構成原理となっているのだろうし、煎餅はこれの呪術的変奏と言える。
ま、確かに、成功をつかむならば、神の名に降伏するしかないのかもしれない。だが、何にせよ強引な勧誘というのはいただけない。神こそ人間の逆境を救う者であり、人間の弱みに付け込むものである。何者かが神の名に降伏せよと叫ぶとき、私は理性の鎧をまとい、超人の剣を取りて戦うことだろう。

シーシュポスの神話 (新潮文庫)

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新書365冊 (朝日新書)

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