実は昨日書こうとした話だったんだが

どうも社会の問題に関心が薄れてきている。最近はちょっとメタ的な分野に切り込んで考えたりしていたから、それらの問いが突き抜けて、懐疑主義に陥っているのかもしれない。
それは書く情熱がないこととは関係ないか。考えていることは結構ある。思考を止めようとしても脳は無意識に自律活動しているからだ。いろいろ随想が現れる。で、帰ってきてそれを書くか、という算段になって嫌になる。これも五月病の初期症状なのか。そうだとしたらかなり怖い。
”日常に帰れ”これはウェーバー箴言だったか。棚から引っ張ってきてみると少し違う。”日々の仕事に帰れ”(「職業としての学問」)である。私は自由な考えを無意識に展開させる存在だが、表向きとしてはこんなにのびのびしていてはいけないなと思う。上の箴言を私なりに読み直すと、”日常性に没せよ”か。この考えを人生のタームに延長すれば、”君は一介の俗人として社会の一隅で生を終える覚悟ができているか”という問いにつながりそうだ。私にその覚悟はあるか。時々自分に問いかけてはいるが、私としてはまだ判然としないものがある。しかし、私に留まらず人間一般は人間としてしか生を終えることができないのだ、という諦念に似た思いは抱くし、一方でそれに反発する私の精神は存在しているのだろう。それは若さだろうか。理想を諦めず、デンノッホ!(それにもかかわらず)と叫ぶ力こそ若さであると思っている。私は表向きは分別の付いた姿を装いたいのだが、やはり若さのパトスは私のどこからか出ている。情動に突き動かされて生きてみるのも良いかな、と思う。
ま、最近取り留めのない随想が多いような気がするが、今はそんなタームなのでご勘弁。

職業としての学問 (岩波文庫)

職業としての学問 (岩波文庫)