続・凡人と新聞屋

昨日の補足とか焼き直しなどしてみる。
いくら新聞屋が世論形成能力を失っていると論難したところで、実際には新聞の煽りはまだまだ民衆に効いているし、世論を依然として操っているとも見れる。本日はここに昨日の焼き直しをしつつ、楔を打ち込んでいきたい。


たしかに、イデオロギー的な分類によって、新聞はそれぞれの読者層の世論形成の役割を担うことができている。しかし、そのような発信された言説を、現代の凡人たちは外面的にとりあえず存在しているものとしてしか受け止めていない。結局は個々の凡人はアトミズム的な世界観に収斂されてしまっているのだし、そこに新聞屋が万人に共通の「公論」を築くことはもはやできなくなっている。これは、新聞がまだ売れているからという問題ではなく、新聞が本当の意味で「世論」=「公論」形成能力を失っているということを重く受け止めるべきである。
ただ、ここで抽象的な「正しさ」の概念から考えてみると、新聞屋はやはり論理的に妥当する思考力を持っており、逆に共同性を失ったアトミズム的大衆の方が問題である見方はあろう。それは確かにそうだ。しかし、その大衆に呼びかけて「公論」を形成するのが新聞の使命ではなかったのか。大衆への「公論」が理解されないからといって―あるいは表面的影響だけをもって理解されていると思いこみ―、真に伝える努力を放棄し、自らが「公論」の担い手であるという空虚なエリート意識のみを保っているならば、アトム化した大衆からは見捨てられてしまうだろうと言うのである。新たな時代性に対応して言論を生み出さないのは、象牙の塔の中ならばともかくとしても、「啓蒙」の担い手である新聞がなさないのは、それこそ言論の怠慢と言うほかない。
たしかにネット言論はクズかもしれない。少なくとも玉石混淆とは言いうる。だが、新聞屋の高論とネットのクズ言説とを比較して、伝統的な「正しさ」の軸で高論に軍配が上がったとしても、それによってこれからの「世界」の担い手が決まるわけではない。たしかにネット言説はクズである。しかし、ネット言説の"凡人波及力"によって、将来新聞が潰え去ったとき、ネット言説はいかなる変革を遂げるであろうか。そこでなされる変革はもしかすると、今までの言論の歴史が辿ってきた変遷のリフレインに過ぎないかもしれない。しかし、そこには未だかつてない―西欧近代も経験しなかったほどの―凡人観があるのだ。この先、何が起こるかは誰にも定かではない。こうして動き出した時代性の中で新聞が生き残りを目指すのならば、それこそ時代に見合った自己ないでの変革が必要であるのは、言うまでもない。