(人類)が身体性を再獲得する日

Passion For The Future: 超人類へ! バイオとサイボーグ技術がひらく衝撃の近未来社会
私としては、この種の未来に対して否定的、というわけではないのだが、どうしてもある種の感傷に似たものを感じてしまう。
実際、このような未来は現代の医療技術の先端で行われているものを見る限り、そう遠くない未来であることが分かる。というか、既に現代の技術は過去の予想を裏切って成長してきたのであるし、これからもそうだろう。禁忌とされているクローン技術も中東圏のどこかの国で実行した例があったと思うのだが…その後の話は聞かない。未来について懸念する人々がいるならば、このような点について関心を持ち続けることが最大の防止になるのではないかと思う。
少し話が反れてしまったようなので戻す。確かに技術の革新は我々を容易に次なる次元へと運ぶ。しかし、その時私たちの身体性はどうなってしまうのであろうか。身体論と言えば鷲田清一先生が思い浮かぶが、先生が提起するような問題は、もはや現実的問題となる。現実的問題となると言うことは、本質的あるいは倫理的な側面よりも先に、物質的経済的な側面ばかりが強調されるということでもある。そうして身体論は、一部のインテリ層のディレッタントな小話と化したまま、忘れ去られていくのであろうか。
近代の発展においては、自然科学の解明が進む一方で、市民社会という像に歪みが生じ、種々の歴史的パラダイムを引き起こした。次なるパラダイムは間違いなく、人間の身体性に当てられていると見ても問題はないだろう。身体性という、社会的に連関させることの難しいこの問題に、個人はどう取り組んでいくのだろうか。そうした点で、一つの感傷めいたものが感じられる。
こうした身体性を問う中で、私が連想するのは映画「アンドリューNDR114」である。この映画はテレビ放映で見たのみだが、今も記憶に焼き付いている映画である。これは、人間ももはや身体性を失った時代に、ロボットが人間の身体性を獲得しようとする話である。ストーリーとしての重みはなく、温かに語られていく中で、人間とは何かという本質的問いが埋め込まれている。それがロボットという客体から試みられる点に、新鮮さのようなものがある。それほど難しい謎かけでもないようだが、この映画の結語が意味するのは何だったのだろう。そこから逆照射される人間の未来像というものを認識していかねばならないように感じる。

アンドリューNDR114 (創元SF文庫)

アンドリューNDR114 (創元SF文庫)