単発ばかりで申し訳ない

いろいろ考えていることは考えているのだが、結論を出すまでの思考の忍耐強さが足りないというか、以前の考えすぎで知恵熱を出してしまったような恰好ではある。
最近はメタ的な思考をぐーるぐると考え出すのだが、単に以前よりも思考の方向性が放縦になってしまったというだけで、収拾がつかない分面倒になってしまった。
ま、数日前の「俺死ぬかも」体験を思い出すに、途中から自己暗示にかかっていたような気がする。論理的思考はそれが懐疑へと向かうにせよ、当座のメタルールみたいなものがあって、それを解除できない限り、出る結論は絶対性を帯びたものになっていく。その結論が絶対的な性格を帯びてくるにつれ、自己に対してその絶対性を振りかざして暗示をかける。
だから、私があの時感じていたのは、私が意図していないにもかかわらずそうしなければならない、あるいは必然的にそうなってしまうのだ、という感覚だったのだ。あれほどの恐怖の感覚はない。
暗示ということで振り返って思うに、催眠術とかにかかりやすい人というのは、心のどこかで催眠術を否定してしまっていいんだろうかというためらいのようなものがあって、そこに催眠が入り込むのではないかと。そういう意味ではよく問題を吟味する慎重さを持っている人ほど催眠術にかかりやすそうな気がするし、その辺は実際にどうなんでしょ。
む、まぁ、この件についてはリプライとかも頂いたのだが、残念ながら返答が的はずれな印象は否めなかった。というのは、どこかで思考停止している印象があったからだ。思考というのは時に停止しようとしても停止できなくて、その先の極限を求めようとする。重要なのは、その論理の極限化と自己の存在とを切り離して考えるということであり、このあたりが現象学のエポケーなんかとも共通するのでしょう。つまり、世界は仮象に過ぎないと言うがごとく、思考こそは仮象に過ぎない、と。思考停止できることも一種のスキルとして習得可能なのでしょうけど、私的には少し難しいかなぁ、とかとか。
人間恐ろしいのは、自分は関係ないと思っていた論理が自分に当てはまると思った瞬間。そして、それは宗教勧誘の最初の手口であったりもするだろう。