インテリゲンチャについて

水曜日。例の講義の後、他の質問もかねて先生に質問に行った。過去と現在のインテリゲンチャを比べてどうなのか、と。先生言うには、昔の時代よりも現在の方が一般的な水準では知のレベルが上がっているとのこと。しかし、それに反していわゆる知識人、インテリゲンツィアが昔ほどの知の水準に達していないとのこと。ま、言われてみてたしかに、現在の新書ブームとかも、供給全体のレベルを下げて需要を増やす→その結果中途半端にインテレクチュアルされた大衆が増える、というメカニズムのように思う。
高校時代の先生にもらった読書目録を先生に見せてみた。先生はそれをちらと見て、良い本ばかりだが古いな、と言う。その古さが良いんだよ、と言いたくなるがそうではなくて、現在となってはそれらの本は引用される古典になりかかっている、ということだ。それで私が少し思うに、過去の知を引用することで成り立っている現在の知というのは、昔の知的濃度を水で薄めたようなものなのだな、と。言うなれば過去のインテリが現在では亜インテリ程度なのだろう。では昔の亜インテリはどうなるんだというと、水で薄めすぎて結果見えなくなってしまっているかもしれない。
ま、過去よりも大衆が知的になっていたとしても、それを今後牽引していくインテリがいないと後が続かない、というのが先生の問題意識のようだ。なるほど、納得。
で、他にも少し聞いてみるのだが、新書とか古典とか読んだのどのくらい?と。曰わく、新書の類なんて大学以降なもので、それ以外は小説が好きだったそうだ。ふむ。でもま、当時の新書というものは現在腐るほど出版されているそれとはクオリティ的に違うものだし、小説といっても文学だし、そりゃそれで知の営みなのだろう。どうもよくまとまらないが。
毎日顔を合わせる友人が、私の読む本を聞いて興味がある風だったので、何か棚から持ってきてやろうかと、丁度良い本をいくつかピックアップしてみたら、その本ページ数は?と聞かれて、読書経験がないのだなと思う。でもま、最初だしと思っていろいろ丁寧に応じてあげていると、その本読むと何に便利?と聞いてくる。そんなんだったらハウツー読めよ馬鹿野郎と叫びたくなるのを堪えて、適当な答えでかわす。彼はインテレクトされる喜びというものがないのかな、と思う。ま、実利面で考えても、優れた本が何かに役立つというのは正しい見解だが、それはハウツーの一対一対応などではない。「孫子」もあの程度の短い文章なら、ビジネス語訳じゃなくて原典読めよとか思うし、世間の人は何を急いでるのかなと思う。
多様性の時代だとか言いながら、多様性の末端の所を求めて群がる人々というのは、何ら多様化の利益を享受していないのだな、と思う。ちょうど、今日の話の終わりに私と先生で一致した見解は、万能人こそ我々の求めるインテリゲンチャだということだった。