ちょっとした論考

昼間、ちょっと昼寝の後の眠気覚ましにあれこれ随想していた。最近の随想はというと、昔のような新鮮な発見が少ない。これは残念なのだが、一方で知識量が蓄えられてきた証でもあるのかな、と。しかしながら、随想でひらめくときの何か神秘的な感覚がないのは、どういうわけかと思う。少し言い換えてみると、語の用法が合っているか分からないが、最近は思考のエントロピーが増大している。要するに、雑念が多いみたいな。一方でそういう雑念の一つ一つが随想の種なわけであるから、一概に避けるべきものとも言えない。理想的なのは、spread→concentrationが容易なことで、この原則は何の戦術にしてもそうである。…と、いつもながら前置きの語りを置いて、そろそろ本題に入っていく。
ちょっと調べ物をしているうちに気になる記述が目に入った。最近の随想をつかむきっかけは、このようなパターンが多い。で、専制国家の基盤である中小農民が減少し云々、と書かれてあったので、専制国家は中小農民を基盤として成り立つということを前提に置いてみることにした。まずは前提が正しいか否かの判定であるが、歴史的事実を見るに、だいたいは証明されている。反例は確かに存在するだろうが、基盤の”一つ”が中小農民であることには異議はないだろう。多くの中小農民が中程度の安定した生活をしているとき、専制国家の国力は最盛期を迎えている場合が多い。この辺は古代ローマの例でおおよそ論証できるのではなかろうか。
で、これとは逆に中小農民の数が減少するとき、専制国家は国力が低減し、あるいは危機に瀕する。古代ローマの例で言えば、大土地所有が進行することによって民衆の貧富格差が増大し、国内情勢は不安定化した。中国史においては大土地所有の豪族が、中央政権にとって危険因子となった。こうして逆の立場から考えてみても、最初の前提はほぼ確からしいことが証明されるわけである。
次に私が想起するのは、民主主義だ。民主主義は歴史のコンテクストで言うと、専制国家を否定することで成立した。これは反例を挙げる余地もない。民主主義の定義としては、ここでいろいろな制限が出てくるだろうが、これは私の随想なので、そうした肝心な箇所は敢えて飛ばす。定義はやりたきゃやりたい人がやればいい。で、民主主義が専制国家のアンチテーゼならば、「中小農民を基盤とする」箇所も対照的に表されるだろうか、と。一つの原理から言えば、専制国家は権力者に全てのリソースが掌握される性質のものであるから、もしかすると中小農民を増やしたいと思うかもしれない。格差や不平等は国情の不安定化を招き、それは玉座の不安定化と同じことだからだ。こうした文脈から、中小農民を増やすこととは、平等主義であると言い換えられるかもしれない。
そうして平等主義的なものと本質的に相反する民主主義的な価値とは何か。一つ思い当たる。資本主義だ。資本主義こそは民主主義の枠内で成立したものである。畑が違うから民主主義ではない資本主義も存在すると思うが、それは今は考慮しない。とにかく資本主義に関して言うと、それは不平等化を進める性質を持っているということが簡単に言えるだろう。資本主義社会の中で貧富の差が増大し、資本家層が支配する構造となる。
そろそろ、読者もお気づきかもしれないが、この話の背景には競争とか格差の現代的問題が潜んでいる。よって私の今日の話はそれのアレゴリーとしても読めるかもしれない。
で、話を戻すと、資本家層が支配するというところで、これは専制国家と何が違うのかという疑問がしばしば一般的に言われる。これは一つにはもっともな話である。だが、資本主義を否定して成り立った社会主義国家というのは、誰もがご存じのように、教条主義による恐怖政治とか、モチベーション低下による生産効率低下とか、あまり大したことのない結果が待っている。
とりとめがないが、一通りの話がこれで落着したので、まとめてみる。民主主義が成立した背景というのは、アンチ専制国家を契機として、平等・博愛とかを理想としてきたわけである。しかし、民主主義の大いなる理想の一つである平等の価値は、資本主義体制の中では、やや封殺されている。そりゃ、ここで機会と結果の平等とに分けて考えるならば、民主主義は機会の平等に重点を置いていると言うこともできるだろう。それは確かに真だ。しかし、誰もが結果を伴わなければ嫌なのではないか。ということで、やはり平等的価値の究極形は機会も結果も平等が良いということではないのか。ま、念のために言っておくが、共産主義擁護ではない。現実上、結果の平等という理想は、全体として非効率だという経験的事実によって打ち負かされている。
すると私の随想はここで少し方向を変えて。では、民主主義において、結果の平等に近くなるような時というのは、いつ立ち現れるのか、と。これは一つには、共産主義が樹立された直後のような、皆が気違いじみた平等的概念に酔いしれているときにしか達成されないのであるし、あるいは歴史的な蹉跌の反動として成立するものである。ということで、だらだらと続けた随想の結論を言おうと思う。できれば、これまでの議論を踏まえて次の言葉を読んで欲しい。そうすると……私が少し嬉しい。それだけ。
「民主主義は国家と国家の狭間に成り立つものである」