「偶有性」考

「偶有性」とは、「ある事象が半ば偶然的に半ば必然的に起こるという不確実性」であるとされる。しかしこの定義は私には納得できない。必然を偶然が阻むというのはわからないでもない。偶然を後から必然だと了解するということもあるだろう。だが、偶然と必然とを半々に混ぜ合わせたアマルガムの性質は想定できないからだ。事象は本質的に、偶然か、必然か、未知か、そのいずれかである。

[書評]フューチャリスト宣言(梅田望夫、茂木健一郎): 極東ブログ

この辺が気になったので改めて考えてみたが、今一つ分からない。が、ここでは思考の軌跡を留めておきたいと思う。
この「偶有性」に類似する概念として、「セレンディピティ」が挙げられているが、このセレンディピティの説明から考えると、偶然と必然は同次元において半々に分かれているのではなく、プロセス的には順序が違っているのではないかと推測する。
私の仮説は、必然的な解が設定されている問題を、偶然を発見する認識のプロセスによって見つけだすことであると考えている。茂木氏がアハ体験であるとする、だまし絵やロールシャッハには、作り手側の作為がある限り、解はあらかじめ設定されていて、これは必然的だと言える。それに対し、その解を見つけ出していく認識の働きは、まだ解明がなされていないのだろうが、論理的必然性などによって保証されておらず、偶然性を伴うと言える。このように、偶然と必然が相半ばするというのは、実はプロセス的な分断を経たものではないかと言える。
では、この立ててみた仮説に対して疑問を投げてみる。そもそも、解が一つに絞られているということは、行為と結果を繋ぐ線が一本であることを示しており、つまり行為に対する結果は必然であると言えるのではないかということだ。そこでは認識のプロセスに偶然性が介入するといっても、それはプロセスに過ぎないもので、行為性全体では必然的関係にあるのではないか。ここは私も詳しい論理的定義などを知らないので、懐疑に留めておく。
最後に、認識プロセスの偶然性という点について少し続けてみるが、必然性とは多くの場合、論理的必然性を指しているということからすれば、認識に論理を利用しない点が偶然性に含まれるのではないかということだ。しかし、あるいは絵柄の類似性などを脳が認識することによって解が導かれているのだとすると、脳は何らかの必然的認識プロセスを辿って解を認識しているのだ、ということになり偶然性は崩壊する。ここは脳による認識のメタレベルに設定するから、偶然性が必然性に変わっているのかもしれない。ただ、現在脳科学で不明な点について、ただ不明であるから偶然だとするのは、誤謬であるように思う。
今日の論考は、ここまで。