凡人と新聞屋

確かに、ネットで流通している、ネット上で読める議論と、彼らの目線はレベルが違う。新聞記者も二十年選手になってくると吸収する力も衰えてくるし、新しいモノの見方も合点がいかなくなる、でも、ネットでいくら良質だとされる議論でもバラして構造を見るとまだその程度のレベルなのか、ということになってくる。私なんぞと酒席を共にするのも彼らの「ネット社会って何よ」という興味の延長線上にあるのだろうと思うが、それはさし措いても紙面にしない各種事情に対する考察の深さはネットをネットでしか見ない人間のそれとはかなり隔絶した品質の高さなのだなと思った次第であります。

新聞社OBに「ネットの言論はクズだ」とボコられる: やまもといちろうBLOG(ブログ)

この見解は至極妥当。新聞屋にも新聞屋のプロ意識はあるでしょうし、彼らはあながちネットが見えていないわけでもないのでしょう。
ただし、finalvent氏は久々に鋭く熱い言説を展開した。
ネットの言論はクズ - finalventの日記
正直、ちょっとシビれた。左翼云々の話を引き合いに出しながら語る辺りは、老いの中で蓄積してきた経験を吐き出しているような、あるいは長年研ぎ澄ましていた刃を突きつけたようにも見える。
私が何よりも共感を抱くのは、氏の凡人観だ。私が思うに、ネット―ブログの普及によって人々の凡人希求はより高まっていると思う。昔あった教養という名のハイカルチャーが死滅し、全く無名である一介の個人の自伝や回想録が読まれている今、人々が安堵を感じているのは自らと同じ凡人である。そして、ネットという場(トポス)は凡人の大量生産を可能にした。この、凡人がマスプロダクションされる点については、批判がなされることがよくある。しかしながら、そこにこそ凡人が息づいているという、紛れもなく幻想ではない、向こうに実在の人間がいるという確信が凡人を生き生きしたものへと変えている。
新聞屋のような、一般的に社会のエリートと言われ、社会を鳥瞰の如く見渡す目を持った者からすれば、ネットの場でクズ言説を振りまいている不特定多数は取るに足らないのでしょう。実際、ネットの場で行われることはほぼ例外なくクズであると言ってもいい。そんな多数の凡人が「万国の凡人決起せよ!」なんてことはあり得ないし、そんな左翼幻想は真っ先に潰えている。そこに何があるかと言えば、ただ在るのみ―イリア―である無数の凡人である。彼らはもう既に新聞屋のエリートの元には帰らない。そこで新聞屋はギャラリーのいなくなってしまった高台の上に立って何を演説するというのか。こういう意味において彼らは消極的だと言われるかもしれないが、無数の凡人は新聞屋の高所高論を見事にぶちこわしにしているし、それに気付いていない―あるいは気付いていてもどうすることもできない―新聞屋が悲劇でもあるのでしょう。
古のインテリというものが潰え去った今、新聞屋が高論を唱えようとも、それはもはや公論―public opinion―とはなり得ない。ただ新聞の論説は「情報」として一次的に平板化され、それ以上の効果―つまり世論形成能力―はもはや持たない。いや、あるいはまだ持っているかもしれない。しかし、将来的な一層の弱体化は火を見るより明らかだ。この時点において、新聞屋は一体何の本質的な優越を有しているというのか。「新聞は危機でない」という考えそのものが、新聞=インテリの残り香たち自身の価値を貶めていると言うことになぜ気付かないのか。彼らの卓越性は無名の凡人たちによってもはや剥奪されてしまったのである。


………ま、そりゃ、彼らも、裏ではいろいろ分かっているのかもしれないけど、ね。