疲労の先に何を見るか

オタク疲れを感じませんか? - Something Orange
さてさて、しっかりとぶくまもしたところで。
内容自体は、これまた何を今更感のあるテンプレとも言えるわけですが、これは極めて現代的な娯楽疲れであるわけです。ただ、私の視点は更に違っている。あ、一応承前ね。
思考実験2007-04-05 知の歴史
思考実験2007-05-04 備忘録とか
視点が違っているというのは、私自身の目標であるところと、このエントリの悩みが被るからであるのだが。私の目標とは、「知」に対する目標である。もっと端的具体的に言えば、私はこの人生生涯の中でどれほどの知識を得ることができるだろうか、というもの。私はそうした知識を得る源泉として、伝統的に知の集積の役割を担ってきた書物の役割を最重視しているし、つまりは一生で何冊の本を読めるか、という話だとも言える。だが、人間が一生で読める本の冊数なんて、小さな図書館程度も無理でしょ、ということは最初から自明であるわけで。そうすると、書物何冊分にも値するメタな知見をどのように手に入れるか、と言う話とも繋がってくる。そういう意味でスゴ本サイトのように、情報を厳選していくという姿勢には大いに共感するところがある。ネットというものは一つにはその目的において使われるのが妥当なのだろう。
で、話を引用したエントリに戻す。たしかにそこで問題とされているのは、テレビ番組などのこれまでは共有保存しておくことが難しかったものである。特にテレビ番組は放送されるという時間的な一次性において、「あとで見る」ことが可能になったのは画期的ではあるのだろう。しかし、この状態を読書に類比して考えると、「あとで見る」は「積ん読」とイコールであることが分かる。積ん読は、現在の本の乱出版な状態を鑑みれば、現代的な問題だとも言えるが、私のように本を読むことに一種取り憑かれているような人間にとっては、積ん読を消化せねばという思いは一種の強迫観念じみたものである。本は即時性を重視したメディアではないので、その点において違いはあるかもしれないが、強迫観念になりうるという点において、引用元のエントリの叫びと、私の叫びとは本質的に同質である。
ちなみに、私の場合、情報を摂取すること自体に対する強迫観念はそれほどない(とは言っても、情報を数日得てないと不安になってしまうが)。私は一次的な情報を得ることに飲まれないようにするため、メタ的な視点を得ようと日々読書している。しかし、逆に読書=メタ視点の獲得の次元において飲まれてしまっているのが私の姿である。
話が飛び飛びになってしまって申し訳ないが、私としては全ての「知識」を網羅するような「メタ知識」とは何かというのが一つの最も大きな課題である。それはどのようにして求められるのか、あるいは「人生」=「メタ知識」であるのか、それは私にはまだ分からない。日々足掻きながら、私は何かを見つけ出していくのだろう。今はっきりしているのは、人生は一度しかないのだから、せいぜい足掻くプロセスを楽しもうという意気込みだけである。


追記:
私の友人によると、「量的評価に還元しながら情報を取り入れていく形」に問題があるようである。ただ、何度も言うように、私は量的評価を質的評価に転換させようとしているところで逆に量的評価に絡め取られてしまっているのですよ。もしかすると、一次的な量的評価よりは効率の良い情報処理ができるのかもしれないが。やはり量と質との弁証法を極限まで高めていかなければならないのでしょう。