自由と平等の相反について

もう一方のブログでエントリを立てるべき話題かなとは思うのだが、どうせ大してまとまったことは書かないから、と。
たしかフランス革命に端を発する西欧民主主義が掲げた理想像というのが「自由・平等・博愛」であっただろうが、以前にとある先生が自由と平等は両立しないと説いているのを見て、ふむと考えた。
最近になってその答えが少しずつ出かかってきたように思うのだが、ま、順を追って書こう。
その先生が言ったのは、主に格差社会の文脈からであったと思う。端的に例を挙げると、自由を保証することによって自由な経済活動を行えるようになると、人々が各自に金を稼ぐようになり、結果として貧富の差が出るので、平等という価値は保証されない、ということだ。
これはしかし、原理的な部分についての説明をすっ飛ばしたものだ。「自由と平等」が並び称されるのは、「自由という価値あるいは権利が平等に保証される」ということなのであって、平等という概念はそれ自体権利ではないことは明白である。つまり、ここで平等という概念が指しているのは機会の平等なのであって、上記の例はそれを結果の平等と取り違えてしまっていることによる。
ただ、その先生と語るに、先生は知らずそんな単純な誤謬を犯していたということではない。先生は橘木俊詔格差社会」を論じるに、その主張は機会の平等を主張しつつも、直接的には結果の平等を保とうというベタな社会主義的思想であると。あの本の誠実な語り口になるほどと思っていた私は、またしてもなるほどと思い返した。
彼の本で論じられているのは、機会の平等は必然的に結果の不平等をもたらすが、その結果は次の行動の機会に影響を与えるという点において、次段階では機会も不平等になるということである。一人の人間の人生スパンで見ると、機会から結果までのプロセスは人生の始めから終わりで一貫しているので特におかしくはない。しかし、その人が生み出した結果がその子供の機会に影響するならば、子供にとっては最初から機会は不平等であると言える。したがって、世代間の長い時間スパンで生み出される不平等は、全ての人間に機会が等しく与えられているという平等の理念と激しく対立する
結果として、やはり自由と平等の価値は両立できないと言うことになる。原初の理念としては立派なものであったとしても、現在においてその理念が生きないのであれば無意味というほかない。こうした理念との背反の溝を繕うべく、日本のような社会民主主義的な国家においては定期的な再分配政策が行われるのである。橘木先生が主張する具体的な政策というのは、こうした一時的な平等への回帰である。しかし、社会民主主義というのは理想と現実を引き寄せては引き離し、引き離しては引き寄せる奇妙な政体だ。この政体が理想にも現実にも肯んずることがないのは、もしかすると政体自体の温存が至上目的とされているからではないのか。自民党下野に始まる55年体制崩壊後の歴史というのは、こうした点について興味深い例を示しているように思われる。
さて、話を戻すが、現在的な問題において、ここまで述べてきた対立の核心に迫るのがまさしく教育であり、教育改革はこの点に対する深い考察を抜きにして決めることはできない。教育の外部化は是か非か、公教育への再分配はいかにすべきか、それについて一人の人間の人生よりも長い視点に立って見つめなければならない問題のようにも思うが、そうして見つめてみても何かが出てくるかは分からない。結局、そうした深い視点とは何の関係もなく、民衆のその時々の欲求によって政策は決定される。それが良くも悪くも民主主義というものである。
とすると、冒頭に述べた西欧近代民主主義理念の基層をなす「自由・平等」の理念というのは、民主主義それ自体からは遊離しているのではないかということになるが、今日はこの辺で議論を措くとしよう。

格差社会―何が問題なのか (岩波新書)

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