ネトラン休刊と著作権問題

「ネットランナー」休刊へ - ITmedia NEWS
グレーゾーンの情報を流していたメディアが終わることに快哉を叫ぼうという向きもあるかもしれないけれども、これを踏み台にして著作権云々について論考を進めてみたい。大分議論が荒削りになるのはご了承願いたい。
私がネトランの表紙を見ていつも思っていたのは、きわめてユーザー寄りの雑誌であること。分かりやすく言うと、積極的にファイル交換ソフトの紹介をしていたのは、それがユーザーに”受ける”情報であるからだと言える。
これは多分ネトランに限らず、雑誌という販売物すべてに共通していて、突き詰めて言うなら市場原理だろう。つまり、ファイル交換ソフトの普及も、市場原理に則った利益追求の考えからすると当然と言うほかない。
一方、こうした著作権問題で、ユーザー側と対立することになる権利者側はどうか。
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この記事を見れば一目で分かるように、権利者側もどこまでも利益を追求する姿勢だ。権利者側が一般ユーザーの集合体であるネットに対して「Win-Winの関係を築こう」などと言っている有様は悪い冗談以外の何者でもないけれども、この点は一旦置いておく。
以上から、著作権側とユーザー側が双方共に利益追求した結果、著作権云々の対立が起きているのだとすれば、それはきわめて物質的な問題となる。著作権という権利的発想は、ともすれば実際から乖離した観念的議論になりかねない。
よって、物質的側面で捉えるならば、著作権側からネットとのシナジー(相乗)効果を期待する議論も当然と言える。しかし、先にも言ったように、相乗効果を期待する相手が不特定多数の一般ユーザーだという点に、こうした経済的側面での解決策の限界が現れる。
こうした経済的限界を超える不特定多数の個人をどうにか縛ろうとしているのが現在の権利者側の動きである。無論ここで権利者側は経済原理とは別の基準、つまり倫理的側面を持ち出して具体的には法的枠組みに依拠する。だが、不特定多数と言えども集合的に捉えることのできない原子的に分散した個人が相手である以上、倫理の体現だと言える法的枠組みについても法的コストという経済的限界が示されることとなる。法的手続きというものは今も昔も処理速度の変化しないものであり、それにネット上で大量に発生する法律的にグレーな行為を一切黒だとしてしまうならば、法的処理は一気にパンクする。
こうした事情から、ネットに合った法体系の構築をという議論も、法手続きの根本の仕組みを変更しない限り、まったく恣意的で不平等な法律だと批判されることになるだろう。特定の個人だけが罰せられて、他の大多数の同様のことをしている人々が罰せられないことは不平等だとして民衆の怒りを強める以外にないからである。
以上のように、権利者側が一般ユーザーとの戦いについていかなる有効な手立てを用いられないとなるならば、権利者側がユーザー側に歩み寄ることしか方法は残されていない。本当に権利者側がWin-Winの関係を構築したいのであれば、それに対して働きかけられるのは分散して統制不可能なユーザー側ではなく、権利者側でしかないのである。そうして権利者側がユーザー側に相乗効果を狙って働きかけるのだとすると、これは従来からの非ネット上の一般消費者に働きかけるマーケティングと何ら変わらないことになる。
少し論考を延長する。ネットであろうと非ネットであろうと、供給者と消費者の関係に変わりがないのであれば、なぜネットユーザーだけが問題とされたのか。それは、ネットという仕組みが消費者を供給者として成り立つようにさせてしまったからだ。たった一人に過ぎない消費者が、情報発信することで供給者としての資格も得られるようになった。つまり、権利者側がネットユーザーに対して厳しい姿勢を取るのは、ネットではユーザーも供給者として同業者だからである。同業者に対する目線が厳しくなるのは当然である。
しかし、消費者個人を供給者としても成立させてしまう事態は、供給者そのものの定義についても問題を投げかけているのではないだろうか。ネットユーザーの個々人を供給者として定義することは容易いが、今まで比類なく容易かつ極小的に成立する供給者たちを、従来と同じ供給者の枠組みに組み入れてしまうことに問題があると思うのである。こうした点で、供給者と消費者との間に、新たな指標あるいは基準を求めるべきだと思うし、それをすることなく法的に二分法で割ってしまうのは、現実にもマッチしない。目下のところ、こうした二分法を現実で食い止めるものは、怠惰による黙認でしかないのである。


最後は上手くまとまらないが、ネットを既存の法的枠組みに組み入れてしまうのではなく、あくまでもネットに合った法的体系を構築してこそ、現実的な対処方法になると信じるものである、と締めておこう。