久々に書く

いやぁ、ほんとひさびさ。
忙しいというわけで、ブログ更新などとは遠ざかっていて、ブログ巡回さえもしない日が出てきたが、日々の読書だけはやめていない。一時は読書もやめちまえということでやめてしまおうとしたが、無理だった。電車で往復している間は読書をするという習慣が付いてしまったので、よほど眠くもなければ車内手持ち無沙汰でヒマなのである。


謙虚な増田 - finalventの日記
紹介されているリンク先を読んでみてなるほど、と思った。要するに接続詞が抹消されていて、話の脈絡が分からない。話もところどころ飛ぶようになっているので、読みにくい文章であることはたしか。
茂木さんの文章もと書いてあるので、あれ、そうだったっけと思って本棚の奥から茂木さんの本を出してみると、接続詞もちゃんとついてるまともな文体である。変だなと思ったところで思い出した。これは茂木さんの口述を聞いて書かれているもので、書き手は本人ではない。
話を戻す。finalvent翁は最近の人に感心しているが、この手の文章はむしろ最近の人にこそ読みやすいものだろうと思う。
というのは、最近の若い人の文章というのは、一応若い人である私が言うのも何だが、これまた接続詞が消された文章であることが多いからだ。私がよく驚くのは、若い人のブログとか書き物を見たときに、これってポエムですか、と思うくらい文章が文節ごとにコマ切れになっていることである。そりゃおそらくはポエム的なものを意図して書かれているものもあるだろうが、もっと決定的なのは、若い人の文章で接続詞が適切に使用されている文章は極めて少ないということである。(ま、これも私ごときが言うのも何とやらだが。)
ブログを書き始めて、こういうあたりの文章の流れというかリズムというか、そういうものがかなり崩れてきてしまったが、ブログとかをやり始める前、個人的に論文的なものを意識して書いていた頃は、接続詞で30分や1時間悩んだりということはざらにあった。弁論部に属していたならば、そういう書き方の訓練も体系的に受けられたであろうが、そういうものは特に受けていないにもかかわらず、文章の流れが無意味な反復でくどくなったり、妙に逆接や指示語が多用されていたりするときには、それだけで非常に悩んだものである。「追憶の手帖」のほうにはもう書き上げたのが数年前くらいになる文章もいくつかあるが、文章のリズムとして自分で完全に納得して書き切れた文章はほぼ皆無だろう。あるいは納得したとしても、あとから一読してみれば、すぐに文章が醜悪ではないかという嫌悪が巻き起こった。
稀有なことにも、その私の論文”もどき”群を読んでくれた理系の友人がおり、文章が読みやすいとほめてもらってかなり嬉しかったものである。私は自分の文章を醜悪だと憎む一方で、その文章にあるいは誇りを持っていた。数人でごくごく内輪の誌面を書いたことがあるが、その時も私の慌てて仕上げたにわか作りの文章が読みやすいと聞いたときは、やはり嬉しかったし、むしろそんなものなのかとも思った。
で、他の人の文章と読み比べてみるに、違いはなるほど接続詞だったのだなぁ、とその時に初めて気付いた。私の接続詞セレクトが本当に文章の流れに適応しているかは、私も自信と嫌悪が相半ばするので何とも言えないが、他の人の文章の方はそもそも接続詞があるべきところになかったのである。
とは言っても、それで本当に文章が美しく見えるものだろうか、と今でもやや疑問に思っている。
大半はよほどの悪文でない限り、接続詞がなくても文章の脈絡で自然に流れが分かるものだからである。一方、丹念に一つ一つ接続詞を入れていっても、そのうちの一つでもおかしければ、台無しになるものだし、部分によっては接続詞が入って冗長だと思う部分もある。それからしばらくして、文章を書くときに接続詞で悩んだら、接続詞を抜かした方がうまくいくということも見つけた。が、果たしてこれが上手いやり方だという確信も持てない。どこか手抜きをした気がするのである。
ともかく、接続詞を抜かせば文章がすらすら書けることは確かである。思ったことをそのまま言葉に変換するだけで書けるからである。しかし、それがコミュニケーションかというと、やはり自分個人の表現としてだけではなく、他者に投げられるという点について考慮されたものが、本当の意味でのコミュニケーションではないかと思う。
それを思うと、接続詞の消滅と、近頃の”パーソナル”メディアの発達とは緊密に連携した事項であると考えられる。ケータイのコミュニケーションなどは場合によっては、一言と一言の応酬である。それは相手との送信履歴が示すコンテクストがあればこそ成り立っているものであるのだが、私はそういうコミュニケーションの方法にはどちらかというと耐えられない方である。端的に言うと、私は誤解が恐ろしい。だから接続詞とか、それに付随するコンテクストとかを述べられずにはいられないのだ。私はこういった点でまさに几帳面なのである。ただ、あのようなコミュニケーション空間に存在するのが常識であるような現代において、接続詞が退廃するのは一種やむを得ないことだとも言える。文脈を意識しなくて済む、一対一のコミュニケーションに慣れた者が、自分の思想や背景について体系的に説明しようと試みることは極めて困難だろう。私のこれまた別の友人で、哲学的用語の羅列でよく分からない言語を操る者がいるが(まぁ彼はもしかすると天才かも知れないが)、コミュニケーション不全の一変種だとしか思われないのである。現に彼は他者に分かってもらおうという意識が希薄だと語っていた。
話がどんどん予期しない方向に伸びていって、まったく余談になってしまうのであるが、他者に伝えようという意識はむしろ必然的に欺瞞を生むものではないかとも考えている。相手に分かってもらおうという対他的な契機が少しでも介在すれば、そうして発された言葉は私に対して100%しもべではあり得ないのである(ここは敢えて比喩的に表現する)。
そろそろ話を戻そう。何の話をしていたのであったか。そうそう接続詞。接続詞がない文章というのは(ここまで述べてこなかったが句読点も同様の働きである)、指し示すものがないのだから、その文章の読みやすさというのは、まったく書き手と読み手とのコンテクストの同質性を前提にされていると考えればよいだろう。そして、finalvent氏の驚きもそうした部分に向けられているのかもしれない(というか多分そう)。
で、ここまで書いた後に内田先生の文章を再び読んでみて、思ったより読みにくくはないかなとも思う。接続詞が消されているというのも率直なところ正しい指摘であるかどうかは分からない。ただ、どうもこの手の文章は私にとっては異質なものというか、結局finalvent翁と同じような感想に留めておくべきだったかもしれない。
ついでにfinalvent氏の文章だが、読み始めた当初は読みにくかった。極東ブログの方は割と読みにくくもないので、その読みにくさはいわゆる「ほのめかし」によるところだったものか。まぁほのめかしにも若干慣れて今に至るのだけれど、翁の文章には独特のリズムがあって面白い。ほのめかしとも共通するが、慎重に言葉を選んでいる、そのように感じられる跡みたいなのがあって、それが面白いのだろう。


今は電車の行き帰りにはヴェーバーを読んでいる。天職としての政治、この小冊子に何度か挑戦して挫折していたのであるが、今再び読むに、分かるようになった部分が多くて、再び読む喜びを感じている。歴史的背景も知らずにマキアヴェリを読んでいた過去の私は無謀とも言うべきだったか。また再読の機会を設けるべきなのだろう。
悪文と評されることも多いヴェーバーの文章だが、独特のリズムというか味わいがあって面白い。北方謙三を読んだ後に読むと違和感だらけで嫌になりそうなくらい、結論=述部まで耐えて読まなければならない類の文章である。ゴールが遠くなればそれだけ、道中を楽しむ余裕が求められるのだろう。


以上、ひさびさということで気の赴くままに書いてしまった。文学センス皆無のはずの私がこれだけ偉そうに語るのは珍しいことである、と思うに留めていただければ幸いである。