近頃の労働について思うこと

以前、祖父母が近くのステーキハウスに連れて行ってくれるということで行った。そこは実はステーキよりもハンバーグが最も美味しい店で、昔からハンバーグを食べに行く常連のようなものであった。
とは言っても、常連だったのは子供の頃で、行く頻度がかなり低くなった現在では、時折訪れる度にいろいろな変化があるのを気付かされる。
ここ二、三年のうち、その店に訪れる度に気になっていたのは、従業員の質である。
昔は年長のおばさんたちが現場を上手く切り回していたので、配膳や注文も迅速に行われたし、全く不快な部分はなかった。だが、そのおばさんたちが引退するにつれ、若い従業員が増えるようになり、研修生扱いの店員がよく目に付くようになった。
研修生の鈍くささというのは、どこにでも共通したことで、それは仕方ないのだが、問題はその後である。
特に最近は、研修生が入れ替わり立ち替わる時期も一段落したようで、若い従業員が揃ってきたようなのだが、若い従業員というのは概して接客態度に何らか問題があると、家人は言う。
最初のメニューの注文の後、子供用に食器を下さいなどの用で呼び止めるときがある。こういうとき、従業員が注文を忘れることが多いのである。多分これはわざわざ伝票に転記していない事項だからで、こういう場合は先にそれを実行してタスクを消化すればよいのに、どうも店員の動きを見ていると、別の行動をしている間に、忘れている。家人に言わせると、昔は注文を書き留める伝票さえなかったということである。
さらに問題であるのは、家人に指摘されて気付いたが、店員が返事をしないことである。先程のような細々とした用を頼んでも、それに対する返事が、ない。「かしこまりました」「承知しました」はおろか、「はい」の一言さえも返ってこないのである。たかが一言であるが、されど一言である。
他にも、最近の若い従業員は年配の人よりも動かない、仕事に対する積極性がないなど、往年の熟練労働者たる家人たちからは厳しい意見が飛び交う食卓となった。
年配の人が若い人に対して愚痴るというのは、昔から使い古された構図で、それ自体は大したことではない。
だが、どうも近年のコミュニケーション不全ぶりは特殊であると思う。店員という役割を任ぜられている間は、マニュアルロボットのように働く人が増えてしまった所為でもある。それが顕著になるのは、上記のようにそうしたマニュアル外のことを要求された場合である。接客業というものは、「事態」に対応するのではなく「客」に対応するものであるのに、この原則が不服とばかりに、無愛想になる店員も多い。
ま、これもよくある構図というなら、それでも構わない。ただ、とくに現代でこれが問題であるのは、労働力の面である。返事をしない店員を見ていると、よくカレーを食べに行くインド料理店を思い出した。彼らは100%日本語を理解してくれるわけではないが、愛想は良く、案外細かい配慮をしてくれる。
要するに、日本人労働者の接客業における質が低下している現在、外国人労働者の参入はより容易になることだと思うのだ。
マニュアル以外の事態に対応できないのなら、マニュアルを仕込めば、それだけはきちんとこなせる外国人の労働力を企業は使い始めるに違いない。彼らにすると人件費が安く済むのは自明のことだ。
となると、現状において、日本の労働力の危機をもたらしているのは他でもない日本人労働力ではないかとも思う。
ヨーロッパにおいては移民労働者が多く、それは社会問題に拡大するまでになっている。ただ、特に接客業に絞った話だが、ヨーロッパというのは店員が無愛想なことで知られる。そういったところが、外国人労働者にも置き換えできる点になったのではないだろうか。
その点、日本は海外から人が驚くほど、接客における気配りが徹底されている。これは誇るべきことであると思う。こうした気配りは日本人でなければできないことであり、日本の労働力の言わば専売特許というべきものだからである。
だからこそ、店員の接客水準が落ちている現在を残念に思う。もちろん彼らにすれば、安いアルバイト料で働いているとか、派遣が増える現状とかがあるかもしれない。だが、問題はそこで留まるものではなく、外国人労働力の参入が本格的になれば、日本人労働力は排除されてしまって、そもそも職に就けない事態が発生することは近い将来に必ず起こる。ヨーロッパでは日本では信じられないくらいの高い失業率水準だということを日本人のどれほどが知っているだろうか。
年寄りの先生は、現代の消費社会でまともな教育もなされない中で、中流意識が交代し、社会が階層化していくのはやむを得ないなどとぶちあげていたが、あながち否定できるものでもないかなと思う。