ネットジャーナリズムとか

言論の世界ではネットのジャーナリズムがリアルの商業ジャーナリズムを脅かすとかとか、色々言われていたし、今も若干は言われ続けているようだが、最近、ふと「アルファブロガー」という企画は一種のネットジャーナリズムみたいなものを追い求めたものだったのだなぁ、と新鮮な感覚で思った。
市民社会とかリテラシーとかを重んじたい人々からは、何かとジャーナリズムの力というものが強調されるし、逆の思惑から強く非難されることもある。しかし、ジャーナリストというのは、そもそもコストに対してリターンが釣り合わない仕事の典型みたいなもので、マックス・ヴェーバーも「職業としての政治」の中でわざわざジャーナリストについて時間を割いて、いくら人気を得ても名誉は得られないという、その不毛さを強調している。
この不毛さは、現代においてはもっと進行している。つまり、ジャーナリストの数が飽和してくるせいで、それを飯の種にできるような人々の数自体が減少しているということである。ネットジャーナリズムの登場というのは、この傾向をさらに強めることに他ならないという点で非難されたことでもあった。
しかし、他方、ジャーナリズムというのは、ヴェーバーが言うように、多大な政治的社会的責任を負うものであり、むしろそうした責任を負った者でしか、ジャーナリストとは言えないとも言える。
こうした条件でネットジャーナリズムがいかに生成されてきたかを見る時、その試みが、それを非難する人々の懸念とは反対に、全く一定以上の広がりを見せなかったと言うことは事実であろう。
その一定値と言えるのが「アルファブロガー」の面々であって、ネットにおいて政治的社会的責任などは事実上存在していないが、彼らは何かの責任を負っている――ように駄ブロガーの我々からは見える。
ネットジャーナリズムと言えるようなものには、オーマイニュースやイザなどがあるにはあるが、あれは全く方向性が見えない。需要(消費)が少ないせいもあるだろうが、書いている人々のリアルな「顔」というものが見えてこない。
それはある意味、ネットジャーナリズムの限界を顕したものだろう。というのは、ネットジャーナリズムというのは本来趣味的になされるものでしかないのであって、副業的という意味すら持たない。その僅かな例外がアルファブロガーの面々とも言える。
結局、ネットジャーナリズムはリアル世界の言論空間に大きな影響を与えなかった。実際には与えなかったわけではないが、主体的に影響力を行使できるようなジャーナリズムが発展しなかったせいで、それらは元からジャーナリズムで食ってきていた人々に取り込まれることになった。現実に、ネット空間が一般人に開かれてくるにつれて、既存のジャーナリズムがネット空間に所在を移していくことになったし、これからもそうなりつつある。
また、ジャーナリズムを消費社会的に見ていくと、ジャーナリズムという大文字で称されるようなものは、一部のインテリを気取る人々の、言わば中世貴族の間で開かれるパーティーのように閉鎖的な言論空間に閉じてしまった。残りの小文字のジャーナリズムは、過去よりも多くの人々に享受されているが、それは先にも言ったような、ただ消化されていくために存在する言論なのであって、意味は持たないし、それが大文字のそれに発展していく萌芽のようなものは見えない。
ネットジャーナリズムに肯定的に期待されるような要素があったとすれば、そうした小文字から大文字への発展だったのだろうが、結局ネット空間が現実社会と融合し近づいていくにつれて、ネット空間においてもリアルと同様に、大文字のジャーナリズムは囲い込まれていくようになっている。
実際、右とか左の言論のようなものにとって、ネット空間は住みやすい場所なのであるが、結局行われていることはそのメンバーだけでの集会や、主人と信者の関係において構成されるようなものでしかない。
こうした孤立する言論空間が相互に連携を持つことで、新たな道が開ける可能性はあるはずなのだが、そうした動きは起こらない。それもまたネット空間が現実世界の延長に過ぎなくなってしまったということの証左なのだろう。