公共性

昨日、公園の近くを通りがかった時に、公園で憩う人々を見ていて、ふと、公共性の真なるものについて理解できたような気がした。
すなわち、公共性というのは公園がまさにそうであると。
人々が互いに同じ公園という空間を共有しつつも、彼らは皆が同じ集団として団結しているわけではなく、むしろ、個人や集団などに分かれて存在している。しかも、人々は全く同質でない集団同士を含みつつも、それらが時に交流し、時に連帯する。全ては平和的に行われるのだ。
こうした役割、つまり個々の人間や集団の間に透明な緩衝地帯として布置されるもの、それこそが公共性に求められているものではないか。
公共性はドメスティックな政治において言われるものであるが、こうした概念は国際政治においても適応できないことはない。
そうした公共性の概念を国際政治に適応したものが、いわゆる国際機関というものなのであろうし、それは政治的権力の重点を移譲されはしなかったが、その力の限りにおいて有効に機能していると思う。
ダルフール危機などについてはあまり詳しい知見を持たないが、こうした問題に介入していけないのは国際機関の持つ本質的な限界と言えるだろうし、それは本質だという点で妥当なもの以上の何者でもない。(これはダルフール問題自体の悲惨さとかそういう問題とは離れて論じている)
高坂正堯先生の「国際政治―恐怖と希望―」にはハンガリー動乱で動けなかった国連の弱さみたいなものも挙げられているが、それを含めて国際機関なのだという結論へ導いている(少し説明不足かも知れない)。
ノーベル賞を取った人だったか何だったか忘れたが、人間の安全保障という言葉がある。これも意図された意味を詳しくは知らないが、それはおそらく、上記のような公共性の概念のエッセンスを示すものだろう。
安全保障という言葉は一般的に固いイメージを持つが、それを本質的に表現したものはそういうものではなくて、言わば「安心保証」みたいな(朝日っぽいダジャレだが)ものではないかなと思う。
しかし実際の国際政治は狼同士の戦いであるわけだし、それはハードな枠組みも多用すべき世界である。ただ、それを柔らかな枠組みに変化させようとしたのが、冷戦期の西側諸国の政策であったわけだし、しかしながらポスト冷戦期の現在にアメリカがハードな枠組み(表面上はソフトに見せかけてある)を多用しているのは立派な皮肉なのだろう。
よくこうした議論をすると、平和主義の日本がどうとかいう日本アイデンティティ論をかます人々がよくいるが、それはまったく幻想的な国家像に他ならないので、安易に主張できても、そこに実のあるものを求めることは不毛以外の何者でもない。