プレカリアートと負け組

近頃、左派の先生の講座を受けに行ったので、それに関連して入ってきた情報なのだが、「帝国」とか「マルチチュード」で有名なアントニオ・ネグリ来日講演をするらしい。というので見てみると、「万国のプレカリアートよ、団結せよ!」と時代錯誤にも共産党宣言をもじった文言があって、プレカリアートって何だろうと気になっていた。
で、ちょうどタイミング良く弾さんがプレカリアートについての記事を書いていたので見てみたわけだが。
wikipediaのプレカリアートの説明にもあるように、仮にプレカリアート=負け組と措定するならば、弾さんは負け組キラーの達人なので、割と多くの点について反論を加えてあるようだ。
たしかに、弾さんが言うところの多くは同意できるかもしれない。雇用形態や個人の生活のあり方について、現代は驚くほど多様化してしまった時代であるので、上記のように「団結せよ!」などと言ったところで、同質性をもたなくなった大衆が団結できるなどとは思えない。だからこそ、プレカリアートという新しい語が作り出されたわけだが、プレカリアートはあくまでも「包括的概念」を表しているにすぎないのである。ここに現代における団結あるいは集団闘争の難しさが表れているように思う。
ついでに言うならば、現代の日本ほど「集団」や「団結」という言葉が似合わなくなった社会はないのではないか。その社会に今尚しがみつこうとする集団は見苦しいようにも思える。現にサヨクは流行らないし、ルーマニア国旗を掲げる団体も厳しい時代の変化の前に立たされている。一方で今の世代における「集団」の意味合いは変化し、個人が嗜好ごとに別個のクラスタに属するような「嗜好性の共同体」化が進んでいる。これは旧来の大きな「集団」のあった時代から見れば、ややもすると個人が”分散”している状況に映るかもしれない。
さて、話を戻そう。弾さんの議論はサヨクの困難を的確に衝くことで正論に仕上がっている。しかしながら、現代における負け組をめぐる議論はそう簡単ではない。格差問題という用語は既に流行が一巡した感があるが、格差論争の中で挙げられた様々な議論のうち、最も気になったものは「インセンティブ・ディバイド」つまり「意欲格差」だった。
「意欲格差」というと、どうしようもない問題のような印象を受ける。意欲に差があるなどと言い出されては、生まれた瞬間から才能の有無があるのはどういうことかなんて言いたくなるし、その気分は分かる。しかしながら、全て人間の成功不成功を決定するのは意志次第というのがこの世の鉄則だ。
ただ、社会を論じて「意欲に差がある」と分析するところまでは良いのだけども、それをどうにかしようという段階になると限界があると思う。友人に、目標を決めたらそれに向かって最短経路で突き進むタイプの人物がいるが、彼に言わせると、周りの人間(私含む)は意志に欠けていると言う、もっと意志を持てよ、とか。それはそれで正論なのだが、意志を持て意欲を持てと言われても無理なのが人間である。私が個人として考えるところで言えば、意欲の有無、成功の是非、というよりも、個人にとって大切なのは、現況を好ましい、幸せだと思うか否かにかかっていると思う。無論、幸せか否かというのは、いかにルサンチマンから距離を取って生活するかということなのだが。このあたりの発想の変化が、私が”丸くなった”と言われる所以なのかもしれない。
ともあれ、社会としては、いかに不出来な人間を救済するか、から、いかに不幸に思う人が少ない社会を作るか、というところへ発想を移す段階へ来ているのではないだろうか。