昨日の続き

ってことで続けてみる。


ブログは「人格」を構成する。
それはなぜかというと、ブログというシステムが同一の著者によって書かれる文章群であるからだ。
ブログにはいくつかの文章が載っており、それらは全て同一の著者によって書かれている事態は、記事群の内容から帰納的に著者の性格、嗜好、考え方などが導かれうることを示している。
それら導かれた著者の性格、嗜好、考え方は間違いなく一つの人格を構成するわけだ。
ハンドルネームは一種の匿名であると理解される向きもあるが、同一のHNの個人が紡ぎ出す文章から彼の「人格」が導かれうるならば、その意味においてHNの人格は存在しうるので、完全なる匿名とは言えない。
これに対し、匿名掲示板や増田の投稿はより匿名性が高い。単一の記事ごとにしか「人格」を構成しえないからだ。
しかし、これも完全なる匿名ではない。匿名とは、あくまでも相対的基準を指しているのではないかと私は思っている。


さて、次の段階を考える。
ブログから浮き上がる「個人」が、ケータイサイトにおけるアバターと同質の背景を持っているのではないか、ということは上記の考えから理解できると思う。
問題は、何が違うのかということだ。
考えられる点を書くと、ブログは人格を構成する素材が基本的に文章を通じた”その人の思考”であるのに対し、アバターのそれはあくまでもバーチャル空間上におけるキャラクターの外見を基にしている。
これはつまり、言い換えると、ブログをよく見る人は文章などを基にして人格を把握するが、アバターではキャラクターの外見から人格を把握すると言うことである。
しかし、ここまで言って私は気になるのだが、アバターはキャラクターの外見を元手にしているが、仮想のキャラクターの外見から本当に人格が立ち上がってくるのであろうか、ということだ。
この点については最後に立ち上がった疑問と言うことで残しておきたい。