インプットとアウトプット

今年度も半分が過ぎた。この半年はずっと「忙しい」を言い続けてきた(今も)ような気がする。
「忙しい」というのはもはや一つの口癖のようなものでもあるのだが、そんな「忙しい」生活を総体として見てみると、他人から頼まれたものごとや、やらなければならないタスク的なものの波に押し流されていることに気づいた。
というのも、最近はつい半年前くらいの昔まで活発だった自分の中での内省にも似た熟考ができていないからだ。
無論、新しい環境の中で今までにないルールや考え方に触れて、刺激は受けている。
しかし、その新しい刺激を今までの思考の蓄積と折り合いをつけて、一つのまとまった思考として「熟成」させていくことができていない。そんな時間が欲しい。
しかも、熟考というのは一つの習慣のようなもので、長らく行っていないと、再び熟考することすらできなくなりそうだ。静かな思考を煩わせるものを取り去りたい。
そして、同時に感じるのだが、新しい刺激を旧来の思考に落とし込むという作業だけでは、新しい刺激は消化しきれないのである。そこで、当然新しいぬか床、新しい思考のベースが必要なのだが、それにはやはり静かな時間が必要なようだ。私は考えながら読書をするので、読書する時間が取れれば、熟考のプロセスも幾分か満たせるのだろう。
外界からの刺激が消化できない状況というのは何とも心地が悪い。ややもすれば自己が拡散しているかのような感覚になる。
上記のようにインプットの重要性は当然であるのだが、同時にアウトプットも欠かせない。というのも、インプットとアウトプットを相互に行うことでシナジー効果が現れるからだ。
世の中はmixiも活発なようだが、自己の吐露とも言えるアウトプットのプロセスを、あのようなジメジメしたシステムの空間の中では行いたくない。――そこで結局このブログを再開させようと思うに至ったわけだ。
思考にねばり強さは必要だが、ジメジメしていてはならない。思考とは論理明快に風が吹けばさらりと飛んでいく塩のようなもので良いのである。塩はそうして、地に還るのだ。