国連が抱える価値の一面性

入学して以来、再びあらゆる方面から国際問題に触れていく機会が増えそうである。そこで、久々に気負い立って雑誌などを読みあさった。その中で「外交フォーラム」五月号に気になる記述があったのでそれをピックアップする形で後に論じていきたい。

民主主義は普遍的な価値である。国連では民主化支援を国連の重要な課題の一つとして長年取り組んできた。より具体的に民主化支援をするきっかけになったのは、2005年である。国連事務総長は「より大きな自由にむけて」(”In Larger Freedom”)の中で、世界で民主化を望む国々を対象に民主化支援を行うため、国連民主主義基金(UNDEF)を設立すると宣言した。

外交フォーラム2008年5月号「市民団体と社会的弱者を支援して」

UNDEFは以下の六項目の活動を民主化支援の対象としている。
①民主的な対話の強化と憲法策定プロセスに対する支援
市民社会および市民団体の強化
③市民教育、選挙登録、政党の強化
④市民の情報へのアクセス
⑤人権と基本的自由
⑥説明責任と透明性および健全性

外交フォーラム2008年5月号「市民団体と社会的弱者を支援して」

国連は世界の様々な価値圏の国々が参加していることから、普遍的価値を標榜する団体だといえる。一方で、民主主義や自由という価値観は、現在では世界的な広がりを持っているけれども、西欧的な価値観だといえる。その証拠に、立憲主義民主化は「西欧近代化」と呼ばれており、世界の大多数がそれらの価値観を認めたり共有するようになったのは、近代化の技術伝播と西欧による世界的植民地支配の歴史などが要因となっているのではないかといわれる。そうして考えていくと、国連は西欧的な価値観を普遍のものとして偽って標榜しているのではないか、あるいは、国連は西欧的価値を世界に浸透させる活動を行っているという意味で西欧社会の回し者なのではないか、と考えることもできよう。
民主主義や自由という価値がグローバル・スタンダードと言い難いことは、先のデンマークにおけるムハンマド風刺画問題からうかがうことができる。風刺画を描いた側は表現の”自由”だと言う。一方で、イスラム社会において偶像化は伝統的に許容できないこととなっており(ムハンマドの教義の原点において偶像化が禁止されているわけではない)、それが両者の避けがたい軋轢を生むこととなった。
イスラム社会の一部が西欧の民主主義や自由といった価値にそぐわない考え方をしていることの証左は、先の9・11テロに端を発するアメリカとイスラム社会との文化的政治的対立関係からも求めることができる。アメリカは自由を守る戦いだというように主張した(アメリカが実際にそのような価値の普遍性を体現していたかは疑問だが)。一方でイスラム社会は自爆テロなどをジハード(聖戦)と称し、アメリカと戦うことがそのドグマにおいて正当だと見るような向きがあった。
歴史的にはソ連の崩壊による東西冷戦終結によって、西側諸国の標榜する価値観である自由や民主主義がグローバル・スタンダードになったかに見えた。フランシス・フクヤマが「歴史の終わり」を著したのもこの頃である。しかし、その後サミュエル・ハンチントンが「文明の衝突」を著し、21世紀に入って文明圏の対立が現実のものとなったのである。
フクヤマの歴史終焉史観とハンチントン文明の衝突論とは思考軸が異なっており、相互に噛み合った批判関係にないという議論もある。が、民主主義が普遍的かつ進歩的価値であるというフクヤマの根本的主張に対して私は疑義を持っている。それはつまり、西欧的な民主主義とは異なる”アジア的民主主義”が存在するかもしれないという考えである。
たしかに表面的には西欧的民主主義が広がりを見せていくだろう。西欧型民主主義は一定の合理性を軸として組み上げられたシステムだからである。しかしながら、西欧的民主主義が根本的にそぐわない地域がある。それはイスラーム圏である。イスラム圏においてはイスラームの教義の中に法律が内在化されており(シャリーア)、それは西欧民主主義を形成する根幹としての西欧的な法との関係において明確に異なっている。こうした事態を他文化圏にいる人々は不思議に感じるかもしれない。しかし、ここでも西欧的価値観が普遍的と一概に断じることのない視点を持つべきなのではないだろうか。西欧社会においては宗教と法律とは一定の分節によって分け隔ててられているが、イスラーム社会はその両者との間の分節が存在していないか希薄である。言語が文化によって分節を異にするならば、その視点を広げて社会システムの点でも文化ごとに分節が異なっているという視座を持つことも可能になってくるのではないだろうか。

少し話が飛躍してしまったきらいもあるが、以上をまとめるならば西欧的民主主義は一概に普遍的とは言い難いこと、そして国連という国際的=共価値的な団体が一部の主義主張を普遍のものとして唱えることはその掲げた看板に反するのではないだろうかということである。通常、国連では安全保障理事会など、国家同士が折衝する場として外交の延長上に語られることが多い。しかし、国連という組織そのものがどのような理念によって建設され、どのような活動を独自に行っているかを知るとき、国連とはどのようにあるべきかについての新たなイメージを想起させるのではないだろうか。