親父が本を貰ってきた

で、読まずに私にくれた。ん、「高校生が感動した『論語』」。ぱらぱらとページをめくってみる。白文と書き下し、そして気味が悪いほど平易な現代語訳(俗語訳)。で、目次を見たら全3章からなる新書なのだが、2章3章は解説程度のページしか割かれていない。大半を占める1章は何なのかというと、論語の白文、書き下し、現代語訳をテーマ別に並べ替えただけである。これで世間の高校生ってのは感動するのか!?いや私も1ヶ月前ほどまで高校生だったんだけど。
全く芸のない本だと、読む前から読む気がしなくなったわけだが、世間の教養として見ると、こういう劣化コピーの焼き回しが必要なのだろうか。最近は光文社がドストエフスキーなどの海外文学の名作を平易な訳に改めて出版しているが、これは新書の劣化コピーとは一線を画するものだろう。
宮崎哲弥氏の「新書365冊」のあとがきでは、最近の新書は入門書ではなく門前書が多いと氏が嘆いていた。ま、これも確かにそうなのだが、私が思うのはちょっと違う。というより単に焦点がずれるだけか。「孫子」の扱われ方とか、ちと見るに堪えないものがある。
高校生が感動した「論語」 (祥伝社新書)カラマーゾフの兄弟1 (光文社古典新訳文庫)新書365冊 (朝日新書)