政治の場における徹底と止揚

http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20070617i311.htm
サルコジ体制には期待が集まるところだが、与党大勝という点にはやはり民主主義の面での脅威のようなものが感じられる。彼らは多数派の政治に対する危惧がないのだろうかとふと思った。
現在の日本の政治は、大勢を占める自民党強行採決を繰り返すという点では民主主義的とは言えないような気もする。実際、マスメディアで大きく取り上げられもせずに採決される諸法案は、実のところ後々になって考えると大きな問題であったというケースは往々にしてある。
しかしながら、民衆がある政党に大勝させるというのは、そうした強引な手続きに対する承認でもあるかもしれないと思うのである。事実、政治というのは失敗の経験の積み重ねによる、止揚の歴史だとも言える。そうした止揚を実現するためには、一つの政策的立場――例えば規制改革という立場――などを一定期間徹底したものにすることで、その施策が最も成果を上げることが可能になるし、一方ではその施策の悪い点について膿を出し切ることもできると思うのである。そうした徹底の後に反省を積み重ねることで、政治の場における止揚が可能になるのではないかと考えている。実際、イギリス政治はサッチャーを始めとする保守党政治の時代が徹底された後に、労働党からブレアが首相になり、「第三の道」路線を打ち出した。
こうした考えに比すれば、日本の政治はキャッチオール・パーティである自民党が保守を基本軸としつつも、野党の要望を徐々に受け入れ、微調整を繰り返しながら、可もなく不可もなくという現状維持的な政治を行ってきた。その現状維持に対して私は不満があるわけではない。むしろ私は現状維持大いに賛成という人間である。しかしながら、日本はやはりまだ多くのことを経験すべきではないかと思うのである。昨日の書評で少し紹介したが、麻生氏が日本をこれからもソートリーダーたらんことを目指すのならば、日本はそうした政治的な経験を、西欧の焼き回しという外面的摂取ではなく、主体的に経験することによって、真の近代―現代国家としての「内発的開化」を体現しうると思うのである。
そういう考え方から、私は日本の政治も少しは冒険すべきではないかと思い始めている。フランスのサルコジ体制の行く末を見守りながら、日本の民主主義の行方も考えてみたいと思う。