出る杭は打たれる、か…。

昨日ははてなに障害が起きていたみたいで繋げなかった。
今日、出る杭は打たれるというのを見た。それを愉快痛快と思うと同時に、一般の人々の「空気嫁」的な圧力というのは恐ろしいものだと思う。空気が読めないからといって排斥する思考は、一種のマジョリティの暴力とも言えるからだ。空気を読むことで秩序を保っていくことは確かに重要なことだが、秩序を理解していなかった人間に対して、即座に抑圧の力がかかってしまうのは、恐ろしい構造である。ま、どちらが善か悪かという二分法は難しいところだ。私はその双方に賛成しつつも、賛成できないディレンマを抱えながら傍観した。
翻って、私はそうした一般性とは距離を置きつつも、安定した人間関係を保ってきたものだな、と思う。それは一般性から離れた位置にいながらも、一般性に化けることが容易であるような私の臨機応変さと言えるかもしれない。しかしながら、根底には自己保身的な作用があるので、決してポジティブなものではないし、その故に後ろめたい思いにならなくもない。ただ、そういう意味で適度な没個性を持っていなければ、人間社会というものはやっていけないのかもしれないなと。一方で、私にはそうした人間社会の中心が嫌だと思いながらも面白く感じる、昼ドラ的な感性があるようだ。そうした人間社会の混迷を傍観しつつ、自分はオブザーバーとして都合の良いときにだけ現れるような、上手い位置を知らずのうちに占めてきたのかもしれない。ただ、それは徳川家康のような弱者の、小心者の知恵であることは言うまでもない。