一日ぶり

昨日少し思い直すところがあった。
国際政治において、日本はどのような態度で外交に望むべきかという問題だ。
現在の日本の外交は、例えば「自由と繁栄の弧」のような構想を打ち立てるなどして、日本外交独自の価値を出そうとしている。だが、私はこれに対して疑問を感じている。というのは、日本外交が手腕としては拙いながらも世界の中でそれなりの評価を与えられてきたのは、それが没価値性のものであったからだ。
例えば、日本は国連において、主要先進国以外の国々が採決に対して取る立場に困ったとき、日本の立場にならうことが多いそうだ。これは日本外交が評価されていることの証左として見る向きが多く、確かに私もこの点は評価すべきだと思う。しかし、そこに自信をもって日本は独自の外交をすべきだ、とするのには疑問がある。なぜなら、日本の外交が現時点において評価されているのは、独自色が無くて当たり障りのない判断をする国だという点においてのみだからなのであって、言い換えれば、他の国々は必ずしもそのような外交をする日本という国そのものに賛同してるわけではないということである。すなわち、日本が独自の外交を打ち出したところで、日本の外交に穏健性を求めていた国々は賛同してくれるとは限らないのである。


現在、日本外交は「自由と繁栄の弧」という構想を打ち立てて、主体的外交を展開しようとしている。それは「自由」という言葉が示すように、西欧的な民主主義の価値を押し出したものだ。私はいくら民主主義国である日本と言えども、その価値を前面に押し出すことには賛同できない。非西欧圏の国々には、日本は同類に見られている向きも多く、それが西欧的な価値である民主主義を提唱することは、お門違いなのではないかと思うからである。また、非西欧圏において、西欧思想である民主主義思想を十分に受容できたとは言い難い日本がその価値を我が物のように標榜することにも違和感がある。
ただ、私は日本が主体的に外交をすることに反対するわけではない。西欧思想を十分に受容できず、また伝統性を明確に定義することができていない日本において、没価値的な外交は消極的に形成されたものだからである。
そこで私が思うのは、日本は民主主義に代表される諸々の西欧思想を今一度再定義するべきではないかということだ。西欧思想の十分な受容ができてこそ、そうした受容思想に対して日本の伝統文化性を定義することが可能になるのだし、それが不十分であるから国家の品格のような珍妙な伝統文化説ばかりが唱えられることになってしまうのではないか。
以上のようなプロセスを踏んで、日本外交が主体性を獲得することは肝要である。ただ、何度も言うが、そうした主体性を背景に独自色を打ち出すことは、あまり望ましいことではない。日本外交に軸と言えるものができたとしても、現在の外交のような穏健的姿勢は保っていくのが良いだろう。前面に押し出すばかりが理念の役割ではない。現実に向き合う中で、主張に一貫性を持たせることは可能だろう。そのような地道な積み重ねを通じて新しい日本の外交姿勢が確立されることこそ、長期的な目標に据えていくべきではないかと思う。


こうした意見に対して、「自由と繁栄の弧」の「繁栄」の部分に着目して、経済的利益を求める姿勢こそが普遍性を持つのではないかという意見もある。確かに金銭的な利益という発想は、ともすれば民主主義思想よりも普遍的なものである。しかし、経済的利益というのは、永続的に得続けることができるものではない。経済的に衰退するタームというのは必ずあろう。その場合にどのような基軸を求めればいいのか、というのが経済的発想の限界である。これは、高坂正堯氏が「宰相 吉田茂」において吉田茂の「経済中心主義」を評価しながらも、必ずしも万能ではないとしたことからも読み取れる。「繁栄」という言葉が飛び出すようになったのは、日本経済が上向きになってきて明るくなってきた世相の反映であるのだろう。