柔よく剛を制す

いろいろ書くネタはあるのだけど・・・というのはもはや当ブログの枕詞の一つになりそうだが、もっと脊髄反射で楽にさらさらと書いてしまえないものかと思う。走り書きタームとまとまって書くタームとは分けるべきだと思うし、それぞれに十分な時間を割くには根本的に処理速度を上げないと追いつかない。まぁ、処理速度を上げるのは簡単なようで難しいけどなぁ。それこそメンタル的な面があるし。
ともあれ、本題。
ふと思うのだが、強い人というのがたまにいる。強い人にもいろいろ定義はあるが、ここでは割り切れる人と書くのが適切か。要するに論理ですべてを割り切って効率的に処理できる人。コンピュータが発達するにつれ、人間に求められる能力もコンピュータ化しつつあるので(無論その逆も言えるが)、こういう人々が世の中をリードしつつある。梅田望夫氏が賞賛するグーグル型人間もこれを象徴しているように私は感じているが、ここから私はさらに個人主義的な自己責任っぽい香りを感じる。
何か今までにも同じようなことを行ってるような気がするが、まぁいいか。
で、そう言う人たちの考え方というのは、良くも悪くも自分至上主義。自己中というとそう言うわけではなくて、どちらかというと独我論的な境地に近い感じ。要するに結局あるのは自分一人なのだから、という孤独を感じる。無論彼らにしても友人はいて、その交友を大切にしてるのだが、その交友は自分にとってのメリットやそういうものを基軸にしていて、そうした利己的な基準で交友関係が構成されているという印象がある。
ま、ここまで言ってしまうと行き過ぎのような感じがするが。私は、どうすれば彼らを社会の中へ引き込むことができるのかという点に興味を注いでいる。”万能感に酔いしれている彼ら”をどう打ち倒し、社会の中へ戻すことができるか。こうした私の密かな目標は、彼らを打ち倒そうという闘争的な目的ではある。
ただ、社会性云々の方向から反論を試みれば、ユートピア論のような実のない空想話になってしまうだけなので、それをいかに”もっともらしく”見せるかという点が問題となる。ここでのもっともらしく見せる技術として妥当なのは、論理ではない。相手は論理性によって社会を何らかの形で切り捨てるのだから、論理によって挑むべくもない。ただ、藤原正彦的な荒削りな言い方にはしたくないが、論理は不完全である。否、人間には何らか論理によって把捉できない(しかも永遠に)領域があると思うのだ。この”推測”も含めて、立証する根拠として寄るべきなのは、「明証性」ではないだろうか。
残念ながらwikipediaには明証性が載っていない。広辞苑で引いてみると、「直感的確実性。直感的に心理であることが疑い得ないこと。」とある。だが、私が新しく定義したい明証性というのは、そうした直感と論理との中間に位置するものである。ただ、直感に寄らず、直感でありながら論理によって捉えられる状態。論理と言っても、一定の範囲内での論理性が示されるだけでは不十分なので、できるだけ広汎な互換性のある論理によるのが望ましい。
以上のような明証性によって、絶対的個人を信じる彼らを引きずり下ろしたい。一方で自分たちが社会運動家のように空虚なイデアだけを振り回すようにはなりたくない、というアンヴィヴァレントな感覚が契機ではある。
この望みは実現するであろうか。


ここいらで話を変えてみる。私の仮想敵たる「彼ら」の主張とは何なのか。
それは一つには、論理によって世界を把捉できると考えていることである。世界は何らかの規律によって成り立っており、その規定する複数の論理が複雑に絡み合っている所為で把捉できない。科学の発展によってあらゆる自然の法則が発見されてきたように、いつか遠い未来には世界のすべてを構成する論理を把捉できるという主張である。
これは、現在までの科学の発展の歴史の延長上にあるものであり、不思議な論理ではない。しかし、それが世界のすべてに向けられ、彼らがその解明がなされることを信じていることは非常に重大な問題を投げかけている。論理によって世界が把捉されるのならば、「私」さえもその論理の俎上に上がることはもちろんである。そして、「私」は論理によって把捉される対象物となり、主体的な「私」が否定される。


404 Blog Not Found:書評 - 脳の中の「私」はなぜ見つからないのか?
以上に示される弾さんの恐怖と私の恐怖は似たものがあると思う。科学の発達によって「私」が否定されるタームは間もなく来ようとしているようにも見え、われわれは「私」という自己保存欲求のために恐怖する。
しかし、脳科学をエッジとして切り込んでくる彼らは「私」の否定を恐怖していないように見える。その態度こそが彼らを次代のイノベーターたらしめているのであろうし、それは認めざるをえない事実である。
だが、一方で彼らに対峙するわれわれは、何らかの悲鳴――あるいは明証性によって――彼らを打ち倒さなくてはならない。少なくとも引き留めなければ、「私」の否定を乗り越えられない弱者であるわれわれにとって、空前の絶望の時代が訪れる。
そう、ここで問題となっているのは、「私」を軽々と乗り越えられる存在である彼らとの対照としての、「私」に囚われる弱者のわれわれでもある。
内面的にも弱者が切り捨てられる社会になるのなら、それはまさに絶望しても絶望の行き場がない状態だと言える。


最後に、余談として別の観点を加えておきたい。
上記で明らかになった対立構図の両者それぞれにあるナルシズムについてである。
上記では、われわれは乗り越えられない弱者であると書いたが、それは逆転して見ることもできる。すなわち、私たちは自己存在の否定に耐えるが故に絶望という苦難を背負い込もうとしているのであり、対する彼らはそうした否定から目をそらす弱者であるということである。たしかにこの逆転構図は、彼らがポジティブに「私」の否定を狙っているという点において、明確に妥当するとは言えないものだ。しかし、この逆転構図を仮定すると、本質的にわれわれが優っていると考えていると取れる。こうした思考法はどこかニーチェ的な臭いが漂う。
一方、彼らのナルシズムとは、冒頭で述べたように、「私」を否定し突き進む自己に対する無限の信頼である。ここでは自己と表現しているが、そこでは自己は論理性の仮託として主体性を失っているし、正確にはナルシズムが向けられているのは自己=論理である。
ただ、このナルシズムが梅田本から梅田氏の意図を切り離して純目的とするような方向に進むと言えるし、その意味では狂気の思想であると言える。本来マイノリティであったはずの狂気が世界を覆いつつある危険性について指摘できるのは、われわれのみなのである。しかし、彼らはわれわれの流儀に最初から目を向けようとしていない。こうして、われわれは彼らをエサで釣って打ち倒す「戦略」の必要に迫られる。