象徴する意味の存在

http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/gyousei/news/20070817k0000m010058000c.html
ま、これは自分に人気があると錯覚していたナルシズムを今回の選挙で叩きつぶされて反省したということなので、とりあえずは良いことだ。

安倍氏は本当に選挙に強かったのだろうか。二〇〇三年に行われた衆院選は、民主党が躍進し、自民党は大敗しているが、これは小泉首相―安倍幹事長の二枚看板で戦った選挙だ。二〇〇四年に行われた参院選でも、自民党は敗北を喫しているが、これも、小泉首相―安倍幹事長の組み合わせによる戦いだった。このコンビは、衆参、合計二回の選挙で負けている。実力の程はテスト済みだったのだ。しかし、日本の報道機関は、どこか一社がリードしたことに横並びに従う傾向がある。一社が「安倍氏は強い」と報じたのを皮切りに、メディアはそのテスト結果を忘れ去り、一斉に安倍氏の優位性を報じて"世論"を作り出した。

中央公論2007年九月号所収 加藤紘一「政策中心に党内”再編”を」p141

ま、大方は正しい指摘だと思うが、世論を作ったのがメディアの意図だったかどうかについては少し違うような気がする。
メディアも誤解していたのではないかと。で、それには多分、内閣の広報というか世耕さんのことだったりするかも。


そもそも首相がカメラ目線をするというのは、米国の大統領風を真似したものだと思うのだけど、そこからして間違っている。
米大統領の場合は、彼は直接選ばれたわけだから、国民の方を向いて話をしなければならない。が、日本の場合は違う。
カメラに目を向けるという姿勢そのものが、発言の一つ一つに国民の信を問うているのであるから、直接選挙のない日本の場合、今回の敗北では安倍さんは辞めなければいけないことになる。
そういう意味では、続投を決定した安倍さんがカメラ目線を辞めたというのは妥当なことであるのだと思う。


もう少し延長すると、一国のリーダーが誰に向かって話をするかというのは、ベタな話、自らの権力の源泉に向けられるものでしょう。
安倍さんが国民に目を向けたいと言ってカメラを見たとしても、国民が安倍さんの権力に直接コミットしていないなと感じる場合、その態度は欺瞞ということになる。
だから、その意味ではポピュリズム的な国民参加の風潮を作り出した小泉さんがカメラを見つめるのは、あながち間違っていないわけですよ。
ただ、小泉さんであっても、自分の関心の要点や、選挙の時にしかそのような態度を取らなかっただろうし、それは国民との信頼関係というものを単なる演説形式として捉えていなかったということである。


ま、題にあるように、これは象徴するものが拠って立つべき意味があるか否かという議論なのだが、私の筆力不足で上手くは書けない。
選挙の時の各党首、各候補者の態度というのはベタな模範正答例。ああ言うときは国民の方を見ないといけない。
ただ、選挙を通して成立した権威・権力が信任を得るためには、相互の交信がないと難しいので、オープンな議論(例えばYuoTubeでの大統領候補討論会)をするスペースがしっかり準備されていない日本においては難しい話かもしれない。