ケータイ小説と現代の心象風景

10代の中高生たちはなぜ 「ケータイ小説」にハマルのか : J-CASTニュース
ま、今までにそれほど小説を多く読んできたわけではないし、ケータイ小説に至ってはどんな内容なのかもはっきりと分からないのだが。
どこかで聞いた話だが、ケータイ小説はレトリックとか文才的なものは極めて乏しいが、会話文などを主体にして構成される文章は、読者の”体験”に訴えかける力が強いそうだ。どこかのブログか本に載っていた話だったと思う。
ケータイ小説ではないが、現代小説は昔の小説に比べて難解であると高校の時の先生が言っていた。先生が言うに、夏目漱石のような昔の作家は心情をはっきりと書いたけども、現代の小説はそこを明示しようとしない。そういう意味では、現代小説の方が読解するのは難しいと。
過去の作家→現代作家に時代が移っていく過程で、心情を表に出さない方向にシフトしているのなら、ケータイ小説は時代の最先端を行くものであるかもしれないなと思った。


たしかに、登場人物の心情などがはっきりと描かれない文章はその分難解である。一方で、心情が明示されないにもかかわらず多くの読者の共感を得られるというのは一種の文才でもある。
しかし、心情が明示されない文章が移っていくという事態には、デメリットも存在するのではなかろうか。
というのは、人は明示されなくてもその背景の心情を感じ取ることができる。それは昔から詩や俳句が存在してきたようなものである。
が、直感で把握することと、はっきりと概念を認識することとは別である。
文章に埋め込まれた心情や含意を直感で把握することはできても、その心情は厳密にはどういうものなのか、はっきりと分類することは困難だ。
加えて、現在そういう小説に流行が移っているということからして、現代小説は多くの人々の「共感」を得る反面、その心情が一体何であるのかという明確なイメージが失われているのではあるまいか。
例えば、現代的な家族の問題に苦しむ心情を描く場合、それに対する共感は得られても、はっきりとその心情が描かれなければ、現実に行うことのできる処方箋とはならない。そうして、現代人は共感だけで満足し、問題をはっきりと認識せぬままになってしまうのではないだろうか、というのが本日の懸念である。
ケータイ小説はまったくそうした共感だけに訴えかける点で、一時的な慰藉にはなっても、心情が何であるかを直視し問題解決に向かわせる点では乏しいものなのではないだろうか。
まして現在、そうした他者関係が個人に強い浸透力を示すようになっている世の中では、体験だけに終始する小説は、閉塞感を増やすだけなのではないだろうか。