共同体論について

よくこの手の議論はなされるが、要するに地域の共同体を構築すべきだというもの。
これに関しては、確かに必要だと思う一方で、その共同体構築について具体的な意見というものは大抵の場合述べられないし、いざ構築されたとしても、そこから発生する問題点があるだろうという議論もなされない。つまるところ、新聞の独断勝手な理想主義的社説のテンプレにしか過ぎないような気がする。
で、実際のコミュニティ構築の議論はどのように決定されるのだろうか。
それにはまず、利益的な問題を考えてみることが必要だろう。結局、人は利益にしたがって行動する経済的側面が強いからである。
コミュニティを利益的側面から考えた場合、どのようなコミュニティを構想するかによって多少の違いはあるが、コミュニティは互助的な組織である。つまり、個人は他者からの献身を通して利益を得られる代わりに、他者に対して献身を負わねばならない。
だが一方で、ボランティア活動などを見る場合、それは純粋な献身ではなく、経歴に役立てるためだとか、結果として利自的行為を想定している点で、献身は経済的な枠組みの中に取り込まれている。
それは地域共同体においても同様で、互助期間がなくても家事の外部化などが進んだ結果、そうした献身は経済的に取引することができるのである。そして、経済的な枠組みで実行できるということは、あくまでも個人のニーズに合わせてサービスが存在することを指している。
面倒な町内会的な活動は、自分が忙しくてもやらなくてはいけないが、それを外部的に委託すれば、自分が希望するときにサービスを行ってくれて、しかも対価としての料金は自分の都合に合わせて稼いでおけばよい。共同体というものは個人を縛るものだが、それに対する自由な経済的サービスが個々まで発達してしまったことで、個人は経済的には共同体に回帰する主な理由を失ってしまったと言える。
同様に、現代において真の「互恵的」関係というものは存在しえない。もしあるとしてもそれは偶然に存在する互恵的な状態のみであって、関係性として互恵的になることはない。
共同体を推す人々の中には、社会共同体の温かい人間関係云々という議論を繰り出してくる人もいるが、以上のような論理にしたがって考えてれば、それは社会共同体自体の利益性を強調するものに過ぎないのであって、そうした利益性を強調すると、共同体自体の利益がどうという問題に焦点が向いてしまい、結局は共同体が値踏みされかねない事態になる。
そこでは個人が共同体にはいるか否かについて自由意志が前提されているので、全員もしくは大多数が参加した共同体というものはあり得ないし、共同体が大多数を組み込まなければ上手く機能しない一種スケールメリット的側面を備えている以上、そうした共同体構築は不可能だと言える。
それでも共同体の価値を重視して強く強調したいのならば、共同体を法的枠組みにおいて設定することが挙がる。社会共同体に共同体論者が推すようなメリットが本当に存在するのであれば、法的枠組みにおいて議論されることは望ましいと思う。
ただし、法的枠組みにおいても最終的な焦点は、大衆がそれを望むかということである。厳密に政治的仕組みと関連させているわけではないが、法的枠組みにおいて設定することは、参加までの全てのプロセスが自由意志的に決定される状態とは違い、法的枠組みがおそらく多数決によって決定されると、そこから全体に適用されるので、共同体の参加率による非効率性は考慮しなくて良い。
だが、ここで堂々巡りのように問題になってくるのは、法的な強制力で決定することは倫理的におかしいのではないかということだ。だからこそ、共同体についての議論をもっとオープンにして十分に議論し尽くすことが必要になってくるのだし、法的枠組みにおいては十分な議論が尽くされた後の決定が尊重されるのである。