「ウェブ時代をゆく」書評

梅田望夫の4つ目にあたる著作だが、今までの著作が「こちら側」の人々、特に壮年以上のウェブ世界に携わる機会が少ない人々に向けて書かれたものだとすれば、今回は「あちら側」に違和感なく接していける若い世代に対して激励した内容である。
梅田の対談編「ウェブ人間論」については以前に書評したが、あれから後に「ウェブ進化論」も読んだ。私は当初梅田の提起に否定的な印象を持ったが、この著作を読むに至って、梅田の提起を以前にも増して受け止められるようになった感がある。特に今回は若い世代に宛てられたメッセージということで、わたし自身の問題として受け止めた部分も多く、非常に刺激になる著作だった。

あとがきから

あとがきによると、梅田は「西洋事情」と「学問のすすめ」を目指して「ウェブ進化論」と「ウェブ時代をゆく」を書いたという。さすがは慶大卒とも言うべきか。
福沢諭吉実学を説いたが、梅田のオプティミズムはまさにその精神を継いでいる。
福澤の実学については、米国のプラグマティズムの先駆とも言える精神性を備えている部分がある。梅田はウェブを、実学をドライブするこの上ない最良の道具として捉えている。
ただし、実学についてはわたし自身の疑問があり、それは単に金稼ぎなどの実質的な面における道具としての学問なのか、と言う問題だ。これはフランクフルト学派のホルクハイマーとアドルノが唱えた、「道具的理性」ではなく「批判的理性」を持てという主張に近い。
また、本書が「学問のすすめ」に対応するものであるならば、「名無しの権助」論はどこに求めればよいのであろうか。福澤は実学という前向きな方法概念を説きながらも、前時代への批判は痛烈であった。しかし、それは福澤の当時の日本に向けられた強い危機意識に端を発するものであっただろう。梅田もp236で示しているように、現在の日本に強い危機意識を持っている。日本の優秀な若い人材が無事にサバイバルできるかどうかを非常に危惧している。そこで梅田は批判ではなく励ましを用いているのである。

知的世界の広がり

ウェブ進化論」や「ウェブ人間論」から引き継がれてきた梅田の関心として、グーグルをはじめとする先進企業が「あちら側」に作り出す巨大な知的世界とその秩序付けがある。
中でも、私はグーグル・ブックサーチに注目するところが大きい。例えば、本を読んでいて気になった箇所があったとして、それを後から探し出したい時とか、あるテーマに沿って調べ物をしていて、膨大な著作の中からあるキーワードを含んだ部分を抽出したい時、ウェブの検索エンジンに慣れ親しんでいる我々としては、本の中身を検索に書けることはできないものかと思う。
私たちが日常的に本の部分内容を検索できるのは、著作権の問題などがあり、随分先のことになりそうだが、アカデミアの世界においては「ウェブ進化論」から今回の著作に至る間に大きな進展があったことが読み取れる。
また、p154にある、グーグル・ブックサーチが「あちら側」に巨大図書館を作り出すということでの知的生活の手ぶら性は、スゴ本サイトのDainさんが図書館を利用する理由とも似ている。確かに現時点においては図書館が知のターミナルとしての役割を果たしており、最も使いやすいのであるが、それが近い未来に「あちら側」の巨大図書館が担っていくことを期待したい。

「本」というメディアの未来

ところで、全ての本がデータなどの形で電子化されたとして、既存の本というメディアはどうなるのか。これは「ウェブ人間論」で持ち上がっていた問題である。
以前は否定的な印象を持っていたが、ケータイ小説の波及や、本以外で著作が読める仕組み(「DS文学全集」とか)が現れるにつれ、本からの移行はそれが何時であれ、必然的なことであるのだと思うに至った。現在の本という仕組みにしろグーテンベルクの発明以降の歴史でしかないのだ。グーテンベルクは最も評価されている発明家であるが、本に変わるメディアを発明したとして歴史に残されるのは、一体どの人物、あるいはどの企業であろうか。
ただし、本から電子化されたメディアに移ったとしても、本は消えることなく残り続けるだろう。本というのは単なる文字情報なのではなく、本一冊ごとに違ったインターフェースを備えた「メディア」そのものなのである。装丁に工夫を凝らした本や色彩鮮やかな絵本などは、電子化したとしても同じ魅力を保てるとは考えがたい。本からの電子化が意味するのは、あくまでも本の文字情報の移転である。
また、p141では情報世界の真っ只中で生きる梅田らしい「生きるために水を飲むような読書」が示されているが、遅読派の私には難しい。書き手が思いを込めて書いた本なら、全てに読者に対するメッセージが込められているのであり、私は読者であるからには、それを篩(ふるい)にかけて自然に残ったものだけを摂取しようという楽観的な態度にはなれない。著者がその本で伝えようとしている何らかのメッセージを前にして、私は読者としての責任を負っているのであり、無下に無視することはできない。
実際、調べものをするときなら資料の字面だけを追って、スクリーニングするような読みもできる。が、私が自分の関心として本と接するとき、本からメッセージを受け取る責務があるのだ。

総表現社会の三層構造」とブログ

p83で梅田は「総表現社会の三層構造」という仮説を立てて、社会のインテリと一般人の間の中間層たる人々が情報発信していけば、面白いものが出来上がるのではないかとしている。
たしかにそれはそうだと思うのだが、現状は必ずしもそうではない。先日、「ブログ限界論」というイベントがあったそうだが、私もブロガーの一人として、ブログのマンネリ化とブロゴスフィア全体を覆う閉塞感のようなやりきれなさを感じている。
GIGAZINEのエントリではスパムブログの広がりが一つの要因として指摘されているが、それはそれほど大きな要因ではなく、実際には誰もがブログを書くということで、ブログ世界全体が人々の呟き程度の小言が行き交う混沌とした空間になってしまったからではないかなと思う。
当初は総表現社会の三層構造における中間層が中心となるメディアとしてのブログが期待されたのであろうが、実際にはブログブームの流れがあり、常に新しい物好きである日本人の一般層に急速に浸透し、日常の「ぼやき」程度の情報が行き交う場となってしまった。SNSの登場でブログブームは過ぎ去ったようにも思うが、ブログとSNSでの情報の中身に大した差別化ははかられておらず、依然としてブログの方向性というものは宙をさまよっている感がある。
こうした流れに刺激をもたらそうとしてきたのが「アルファブロガー」企画のようにも思うが、「アルファブロガー」企画の認知度が上がった現在、今後どのような方向性でブログの「モデルケース」を想像していくかが問題となっているだろう。
私は「アルファブロガー」という考え方は終わっていると思います: やまもといちろうBLOG(ブログ)

進化した高速道路論

ここまでいくつかの論点を取り上げてきたが、梅田が本書で最も強調するところは何と言っても若い世代に向けた激励である。若い世代が新しい方法で知的世界・知的生活にどうコミットしていくか。そこで梅田は「ウェブ進化論」で触れた「知の高速道路論」を取り出し、これを発展させる形で方法論などを示している。
本書で新たに追加されたのは「けものみち」の存在である。専門世界の先端ではなく、そうした先端世界にコミットした経験を生かしてニッチを切り開いていこうという生き方の提示が新しい。
梅田は自身の経歴として思うところも多いのだろうが、これからの新しい知的世界における文系の生き方を探っている。その一つの答えが「けものみち」なのであろう。

高速道路論と消費社会

”すべて事実だが、また何一つとして事実でないのだ”
とはカミュ「異邦人」の一節である。私の心に最も強く残っている言葉の一つだ。これはカミュの不条理哲学の核を言い表した一言だと思うが、ある時現代社会の特徴とは何だろうかと考えていて、私はこの言葉をふと次のように言い換えてみて、さらに強く印象に残ることとなった。
”すべて可能だが、また何一つとして可能でないのだ”
自分自身の実感としても強く感じるところだが、現代社会とはまさにこのように言えるものであると思う。消費社会が進行した現代では、ほぼ全てのモノが消費物として用意されており、そこでは我々は消費という行動を通して様々な事柄を実現することができる。娯楽から生活全般、果ては恋愛に至るまで、全てが消費物として存在している。そこでは我々の知的生活さえも消費の対象であり、その結果知識を取り巻く生き方も多様化した。しかし、いくら選択肢が多様化しようが、それは用意された選択肢に過ぎないのであり、我々が目指す可能性としての多様性は全て用意されている、という点で我々には何一つとして可能ではない。私たちは何一つとして可能ではない閉塞感の中にいる。こうしたテーマについて常々気になっている本がボードリヤール「不可能な交換」である。いずれ大学生になった暁には読んでみたいと思う。
さて、梅田はウェブの「あちら側」に用意されたインフラが多様な知を提供して、人々がそれを摂取していくことを高速道路を疾走することに喩えた。しかし、人々が走る高速道路は全て”用意された道”なのであり、その意味で疾走する人々はまだ何をも可能にしてはいない。それは知を消費しているに過ぎないのである。我々は整備された高速道路によって様々な知的活動が可能になるが、その限りでは何一つとして自ら可能にはしていないのだ。この感覚を高速道路以外に喩えるならば、長い海峡を泳いで渡ることに似ている。人々は高速道路を疾走しているように見えても、その実は長い海峡を横断している。つまり、海峡を泳ぎ切らなければ”消費する知”に満ちあふれた海を抜け出すことはできない。しかし、大半の人々は向こう岸まで泳ぎ着いて地上に這い上がることができずに消費の海へぶくぶくと沈んでいく。我々が消費の海から這い上がるにはどうすればいいのか。梅田が示す、世界の最先端を切り開くギークたちの答えとは逆説的なものである。海を渡りきる、つまり膨大な知を消費した先に新たなフロンティアが見えるという。そこでは、知を単に受動的に消費していてはならない。この消費社会の先を切り開く開拓者に求められる精神を梅田は「自助の精神」と言い表している。

ネットは楽しい、面白い、便利だ。消費・娯楽の対象としてのネットの可能性はそれだけでも大きい。しかしネットが本当の意味で人生と交錯するのは、さらにその先においてである。ただそこは「自助の精神」なしには見えてこない。

抽象的な思念として疑問は残っている。開拓者たちがフロンティアを切り開くことは、消費社会をさらに広げることでしかないとも言えるからだ。その限りで、消費社会の外側に抜け出ることができるのは、開拓者たる運命を持ったごく少数の人々にしかできないことなのだ。
ただし、向こう岸にたどり着いた人々の中には梅田のような、岸にたどり着く人を引っ張り上げ、泳いでいる人に声援を送る存在がいる。彼らがいることで、我々はよりいっそう向こう岸まで泳ぎ切ろうという意志を強く持つことができる。まさしく海を渡る我々の「水先案内人」たる彼らは、「互助の精神」に突き動かされているのだろう。