自由と平等のジレンマについて

ちょいとメモ。
自由と平等とは対立概念であるかのようによく言われる。
たしかに現在の社会福祉や経済政策の場面を取るとそのように言える。自由競争と均等分配という二つの政策は間違いなく性質が正反対のものであるからである。
ただ、それが原理的にも自由と平等が両立しないと言えるものなのかどうか。ここで着目すべきなのは、自由という概念の定義であると思われる。
まず、誰にとっての自由であるか。自由という概念が普遍的概念として提唱されるからには、自由が普遍的に適応されることが必要であり、この場合自由は万人にとっての自由ということになる。
万人にとっての自由と言うことであれば、万人が等しく自由を感じるために不自由をできるだけなくしていこうということになる。
例えば、世界に人が一人しかいないならば、この場合の万人はその一人を指すので、この世界の限界までその一人が自由を謳歌することができる。これが二人になると、世界における自由は2分割されなければならない。二人が最大限に自由を感じ、不自由を極力抑えるためには、単純に考えて、世界をきっちり2分割する必要が出てくる。これが3,4,5・・・と増えていっても同様で、つまりここで言いたいのは、(普遍的)自由という概念は万人に平等に保障されるべきものとなるということだ。ここにおいて、自由と平等は両立され、ジレンマは解消されたかに見える。
ただ、ここで現実に立ち戻って考えてみると、こういうことでは立ち行かない問題があることが分かる。”最初”において自由を平等に保障したならば、人々は当然その自由を使って何かを生み出す。生み出す物事の質量には差があり、細かい議論は省くが、そこで豊かになった者と豊かでないものに分かれる。これは当然自由の所産である。しかし、人々には次の世代が生まれ、血縁関係の中で、最初の世代の物質的優劣・貧富が継承される。このことが意味するのは、二番目の世代において、生まれた時点から物質的差異が生じており、皆が同様に望んでも、同様の自由はえられない可能性があると言うことである。
こうした問題から、自由を平等に保障するのがどの時点において行われるべきか、あるいは、”最初”以後において自由と平等の両立は成立しえないのであるから、自由と平等を天秤にかけて、自由の中でどれほど平等が認められるか、言い換えれば平等の中でどれほど自由が認められるか、を検証していくことになる。現在の格差社会問題における問題提起とは、基本的には後者の文脈に沿いながら、前者の文脈において再分配を提案するものが多数である。