リービ英雄「『there』のないカリフォルニア」

どこかで少し読んだのだが、梅田望夫シリコンバレー礼賛と好対照をなしていて面白いと思うので、紹介しておきたい。


リービは自身がカリフォルニアに行った経験から、カリフォルニアには開放的で快い風土と人情があると言う。
それは季節感の無さが密接に影響した風土論の一種である。リービはその土地の開放感ゆえにグッドフィーリングが浮かぶなどと思っていたが、少し滞在していると、毎日変化の無さに飽き飽きとしてくる。結局、リービはカリフォルニアの底抜けの開放感に耐えられなくなって、その土地を抜け出したのだ。


下放言↓
リービはそんなカリフォルニアを評して、すでに「歴史の終わり」なのだという。そこでは、歴史が繰り返してきたあらゆる人間的束縛から解放されて、自由に満ちていると解釈することができる。それは間違いなく、カリフォルニアの良い面ではあっただろう。
だとすれば、そんなカリフォルニアに打ち負かされたリービの理由はただの敗者であるのだろうか。誇張すると、湿っぽい人間関係が恋しくなる人間は古いタイプの人間であるのだろうか。
いや、そうではないだろう。
この意味で、ウェブに構築される社会、人間関係は結局のところリアルと同じような煩わしさなどから離れることはできない。世界の最先端では、共通の目的を持って邁進する集団があると言うが、それは目的を共有する機能的集団だとも言える。(少し機能という言い方がおかしいかもしれない)
そうした機能的集団はたしかに人間関係の鎖から解放され手いるかも知れない。だが、一方では人間はやはり密接な湿っぽい人間関係を好む者だし、そういう意味で村社会に濃厚だったような煩わしさも受け継がれていく。
ただ、そういう点を超克したカリフォルニアが悪いと言いたいのではない。人間社会の煩わしさから逃れるにはうってつけの場所であるだろうし、そういう場所があるというのは重要なことである。
しかし、こうした自由的な価値観を出したところで、旧来の社会云々の立場からは、例外を容認することで全体の規範を下げるようなことには反対するし、そういう意味で引き籠もりなどが問題視される。
しかしながら、引きこもり自体が旧来の社会の産物と言えるもので、それが表に現れたのは単に可視化されただけだとも言える。
そこで、ひきこもりにとって、ウェブ世界が第二の生きる場としての機能を果たせるかどうかが問題となる。
それは無論、ウェブが職業機能的な共同体だけに終始することを許さないことを意味するが、しかしながら現実世界とは違った世界を作れという要請である。
そうした住める世界というものが多様化することによって、人々の生きづらさがある程度は解消されてくるのだろう。
が、そこで現実世界からは経済的な必要や要請があり、結局は複数に存在する世界のどれか一つが他の世界の上部に立って統治せねばならないという構造が生まれる。
かくして、リアルとバーチャルの重層性が新たに編成し直されるのである。