インプットとアウトプット

今年度も半分が過ぎた。この半年はずっと「忙しい」を言い続けてきた(今も)ような気がする。
「忙しい」というのはもはや一つの口癖のようなものでもあるのだが、そんな「忙しい」生活を総体として見てみると、他人から頼まれたものごとや、やらなければならないタスク的なものの波に押し流されていることに気づいた。
というのも、最近はつい半年前くらいの昔まで活発だった自分の中での内省にも似た熟考ができていないからだ。
無論、新しい環境の中で今までにないルールや考え方に触れて、刺激は受けている。
しかし、その新しい刺激を今までの思考の蓄積と折り合いをつけて、一つのまとまった思考として「熟成」させていくことができていない。そんな時間が欲しい。
しかも、熟考というのは一つの習慣のようなもので、長らく行っていないと、再び熟考することすらできなくなりそうだ。静かな思考を煩わせるものを取り去りたい。
そして、同時に感じるのだが、新しい刺激を旧来の思考に落とし込むという作業だけでは、新しい刺激は消化しきれないのである。そこで、当然新しいぬか床、新しい思考のベースが必要なのだが、それにはやはり静かな時間が必要なようだ。私は考えながら読書をするので、読書する時間が取れれば、熟考のプロセスも幾分か満たせるのだろう。
外界からの刺激が消化できない状況というのは何とも心地が悪い。ややもすれば自己が拡散しているかのような感覚になる。
上記のようにインプットの重要性は当然であるのだが、同時にアウトプットも欠かせない。というのも、インプットとアウトプットを相互に行うことでシナジー効果が現れるからだ。
世の中はmixiも活発なようだが、自己の吐露とも言えるアウトプットのプロセスを、あのようなジメジメしたシステムの空間の中では行いたくない。――そこで結局このブログを再開させようと思うに至ったわけだ。
思考にねばり強さは必要だが、ジメジメしていてはならない。思考とは論理明快に風が吹けばさらりと飛んでいく塩のようなもので良いのである。塩はそうして、地に還るのだ。

国連が抱える価値の一面性

入学して以来、再びあらゆる方面から国際問題に触れていく機会が増えそうである。そこで、久々に気負い立って雑誌などを読みあさった。その中で「外交フォーラム」五月号に気になる記述があったのでそれをピックアップする形で後に論じていきたい。

民主主義は普遍的な価値である。国連では民主化支援を国連の重要な課題の一つとして長年取り組んできた。より具体的に民主化支援をするきっかけになったのは、2005年である。国連事務総長は「より大きな自由にむけて」(”In Larger Freedom”)の中で、世界で民主化を望む国々を対象に民主化支援を行うため、国連民主主義基金(UNDEF)を設立すると宣言した。

外交フォーラム2008年5月号「市民団体と社会的弱者を支援して」

UNDEFは以下の六項目の活動を民主化支援の対象としている。
①民主的な対話の強化と憲法策定プロセスに対する支援
市民社会および市民団体の強化
③市民教育、選挙登録、政党の強化
④市民の情報へのアクセス
⑤人権と基本的自由
⑥説明責任と透明性および健全性

外交フォーラム2008年5月号「市民団体と社会的弱者を支援して」

国連は世界の様々な価値圏の国々が参加していることから、普遍的価値を標榜する団体だといえる。一方で、民主主義や自由という価値観は、現在では世界的な広がりを持っているけれども、西欧的な価値観だといえる。その証拠に、立憲主義民主化は「西欧近代化」と呼ばれており、世界の大多数がそれらの価値観を認めたり共有するようになったのは、近代化の技術伝播と西欧による世界的植民地支配の歴史などが要因となっているのではないかといわれる。そうして考えていくと、国連は西欧的な価値観を普遍のものとして偽って標榜しているのではないか、あるいは、国連は西欧的価値を世界に浸透させる活動を行っているという意味で西欧社会の回し者なのではないか、と考えることもできよう。
民主主義や自由という価値がグローバル・スタンダードと言い難いことは、先のデンマークにおけるムハンマド風刺画問題からうかがうことができる。風刺画を描いた側は表現の”自由”だと言う。一方で、イスラム社会において偶像化は伝統的に許容できないこととなっており(ムハンマドの教義の原点において偶像化が禁止されているわけではない)、それが両者の避けがたい軋轢を生むこととなった。
イスラム社会の一部が西欧の民主主義や自由といった価値にそぐわない考え方をしていることの証左は、先の9・11テロに端を発するアメリカとイスラム社会との文化的政治的対立関係からも求めることができる。アメリカは自由を守る戦いだというように主張した(アメリカが実際にそのような価値の普遍性を体現していたかは疑問だが)。一方でイスラム社会は自爆テロなどをジハード(聖戦)と称し、アメリカと戦うことがそのドグマにおいて正当だと見るような向きがあった。
歴史的にはソ連の崩壊による東西冷戦終結によって、西側諸国の標榜する価値観である自由や民主主義がグローバル・スタンダードになったかに見えた。フランシス・フクヤマが「歴史の終わり」を著したのもこの頃である。しかし、その後サミュエル・ハンチントンが「文明の衝突」を著し、21世紀に入って文明圏の対立が現実のものとなったのである。
フクヤマの歴史終焉史観とハンチントン文明の衝突論とは思考軸が異なっており、相互に噛み合った批判関係にないという議論もある。が、民主主義が普遍的かつ進歩的価値であるというフクヤマの根本的主張に対して私は疑義を持っている。それはつまり、西欧的な民主主義とは異なる”アジア的民主主義”が存在するかもしれないという考えである。
たしかに表面的には西欧的民主主義が広がりを見せていくだろう。西欧型民主主義は一定の合理性を軸として組み上げられたシステムだからである。しかしながら、西欧的民主主義が根本的にそぐわない地域がある。それはイスラーム圏である。イスラム圏においてはイスラームの教義の中に法律が内在化されており(シャリーア)、それは西欧民主主義を形成する根幹としての西欧的な法との関係において明確に異なっている。こうした事態を他文化圏にいる人々は不思議に感じるかもしれない。しかし、ここでも西欧的価値観が普遍的と一概に断じることのない視点を持つべきなのではないだろうか。西欧社会においては宗教と法律とは一定の分節によって分け隔ててられているが、イスラーム社会はその両者との間の分節が存在していないか希薄である。言語が文化によって分節を異にするならば、その視点を広げて社会システムの点でも文化ごとに分節が異なっているという視座を持つことも可能になってくるのではないだろうか。

少し話が飛躍してしまったきらいもあるが、以上をまとめるならば西欧的民主主義は一概に普遍的とは言い難いこと、そして国連という国際的=共価値的な団体が一部の主義主張を普遍のものとして唱えることはその掲げた看板に反するのではないだろうかということである。通常、国連では安全保障理事会など、国家同士が折衝する場として外交の延長上に語られることが多い。しかし、国連という組織そのものがどのような理念によって建設され、どのような活動を独自に行っているかを知るとき、国連とはどのようにあるべきかについての新たなイメージを想起させるのではないだろうか。

クラッシュの影響が今頃

ココログのほうに文章をアップしようと思ったのだが、ログイン画面に入って、しまったと思った。クラッシュでPCが吹っ飛んでから、ログイン画面に使用していたオートコンプリートが消えてしまっている。しかも、クラッシュする以前はパスワードなどをメモパッドに書いて保存していたのだが、それもPCの中、ということで一緒に消えてしまった。ココログのパスワードだけはどうも複雑なものを書いた気がするので、今となっては思い出す手がかりがないのが現状である。とりあえず、文章については当分こちらにアップするつもりでいこうと思う。そのまま、こちらオンリーになってしまうかな。まぁそのときはそのときで。

昨日の続き

ってことで続けてみる。


ブログは「人格」を構成する。
それはなぜかというと、ブログというシステムが同一の著者によって書かれる文章群であるからだ。
ブログにはいくつかの文章が載っており、それらは全て同一の著者によって書かれている事態は、記事群の内容から帰納的に著者の性格、嗜好、考え方などが導かれうることを示している。
それら導かれた著者の性格、嗜好、考え方は間違いなく一つの人格を構成するわけだ。
ハンドルネームは一種の匿名であると理解される向きもあるが、同一のHNの個人が紡ぎ出す文章から彼の「人格」が導かれうるならば、その意味においてHNの人格は存在しうるので、完全なる匿名とは言えない。
これに対し、匿名掲示板や増田の投稿はより匿名性が高い。単一の記事ごとにしか「人格」を構成しえないからだ。
しかし、これも完全なる匿名ではない。匿名とは、あくまでも相対的基準を指しているのではないかと私は思っている。


さて、次の段階を考える。
ブログから浮き上がる「個人」が、ケータイサイトにおけるアバターと同質の背景を持っているのではないか、ということは上記の考えから理解できると思う。
問題は、何が違うのかということだ。
考えられる点を書くと、ブログは人格を構成する素材が基本的に文章を通じた”その人の思考”であるのに対し、アバターのそれはあくまでもバーチャル空間上におけるキャラクターの外見を基にしている。
これはつまり、言い換えると、ブログをよく見る人は文章などを基にして人格を把握するが、アバターではキャラクターの外見から人格を把握すると言うことである。
しかし、ここまで言って私は気になるのだが、アバターはキャラクターの外見を元手にしているが、仮想のキャラクターの外見から本当に人格が立ち上がってくるのであろうか、ということだ。
この点については最後に立ち上がった疑問と言うことで残しておきたい。

何か書きたいのだけど

時間がない時間がない時間がない。
でも、何というか短信までに書いておきたいので書いておく。

逃げ道を作ること

最近難しいなと思うことの一つがこれなのだが、要するに、会話では相手の発言に矛盾とか不備があっても、過度に突っつきすぎてはいけないということだ。
私は長年の議論の癖が抜けないのか、どうもこの間合いを計りかねる。
まぁたわいもない会話でそこまで追いつめたりするわけでもないが、少し議論めいたものだと、極限までロジカルな方向を追求してしまうので、相手を論破するところまでいってしまう。むしろ、いかないと気が済まない。
論破したからと言って、私は相手を憎んでいるわけでも何でもなく、ただ俎上の議論に手を加えただけという印象なのだが、それは日本の風土にはマッチしないようだ。
日本の風土は、議論とそれを発する論者とを一括りのものとして見てしまう。
だからこそ、論破したときに相手は自らの人格まで否定されたような気分になる。
こうした点にはドライでありたいと思うのだが、難しいようだ。
ただ、私の観点からすると、議論が終わった後に双方が議論の内容を評価し合い、握手の一つでも交わせば爽やかな気分になると思うのだが、どうも日本の風土ではそれ以前の問題に終始してしまうようだ。

あばた?

少し前にテレビを見ていてへぇという感じだったのだが、ケータイビジネスが好調らしい。
中心はCMでもよく見るモバゲータウン
中の通貨に変換して遊ぶシステムであることは前々から知っていたのだが、何が目的かという点が全く知らず、それがアバターだと聞いて驚いたわけである。
アバターというのは、仮想空間上に自分の分身として作り出すキャラクターのことである。
このアバターを、現実の通貨を変換して服を購入したりしてオシャレにしようとするユーザーが多数おり、それが収益の構造になっているという。
私が驚いた理由というのが、アバターが日本でここまで普及していたのかという点である。
どこで見た話だったか、アバターというのは韓国ネットビジネスでは流行っているが、日本では全く流行る兆しがない、という記事をたしかに見たのである。
だから、日本でアバターが普及していると聞いて、それは今までの日本と何か違うのだと感じた。
ま、それは端的に言えば、PCネット世代とケータイ世代(「層」と言った方がいいかもしれない)の価値観の断絶なのであろう。
普段ならこのあたりでチャンチャンとオチがついて終わり、なのだが、今日のところは先の問題点を提示しておこうと思う。
それは、PCではケータイに先んじてブログが普及していたりするのだが、ブログを通じて人々は「人格」を表現しているのではないかということ、そしてそれがアバターとどのように違ってくるのかということだ。


本日は駄文で申し訳ない。

一転、微妙に

以前の日記でIBM thinkpad X31を購入したと紹介したのだが、友人に言わせると品物と値段のバランスは微妙、というか2,3年前に同価格で売ってたよと聞いて非常に残念な気分に。
以上、何のことはない短信を書くだけに留めておくことにする。
明日は入学式。少しずつ、新展開が見え始めてきたということは幸運の予兆と見て良いのだろうか。